SFと歴史の分岐点小説
ということであった。
小説を書くということは、
「自由に、好きなように書く」
ということで、実際に小説を好きなように書くには、
「出版社というしがらみ」
と取り払う必要があるということだ。
自分の自由に書くということは、
「フィクション」
という架空の話を自由に書く。
ということで、今の出版社から頼まれての仕事は、
「取材をし、その事実を書く」
それとは違う話を書いてしまうと、それは、
「物書き」
として許されないことをしたことになる。
契約上によっての物書きというものは、お金をもらっている以上、依頼主に決して迷惑を掛けられないということで、
「故意であろうが、無作為であろうが、間違ったことを書いてしまうと、依頼主の顔に泥を塗ることになり、自分の経歴に傷をつけることになる」
というわけで、行為の問題というよりも、
「依頼人を裏切った」
ということで、二度とどこからも、依頼が受けられなくなるということであり、これは、
「社会的に抹殺された」
ということになる。
それを自分でやったのであれば、それこそ、
「自殺行為だ」
といってもいいだろう。
だから、
「依頼を受けた物書きには責任があり。その責任を負う覚悟が必要であった」
ということだ。
だから、
「依頼を受けて小説を書く」
ということも同じことで、そこに、何があろうとも、個人の維持を挟むことは許されない。
だから、
「自分の書きたいものを書く」
ということが許されるとすれば、
「何があっても、確実に売れる」
という、自信だけではなく、根拠が必要なのだ。
そして、売れなかった場合の覚悟も当然必要というもので、
「もし、その後にどんないい作品を作ろうとも、出版社が認めてくれなければ、プロ作家としては、立ち直ることはできない」
それが、社会のルールを破ったものの宿命ということになる。
となると、最初から、
「プロ作家として、自分のプライドは捨てる」
という覚悟を持つ必要があるというわけだ。
だから、
「プロ作家である以上、自由はない」
という覚悟が必要だということだ。
実際に、それが分からずに、プロの世界に飛び込んできて、結局、編集者のいうことが聞けなかったり、出版社が望む作家としての力がなかったりして、そのまま消えていく運命の作家が相当数いるということになるのだ。
それを思えば、
「自由にやりたければ、プロとしてデビューするわけではない」
ということになるのだろう。
特に、
「ルポライターとしての物書き」
という立場を知っている以上、
「趣味で小説を書くのは自由なのだろうが、プロ作家になるということがどういうことなのか、分かっている」
ということでもあるのだ。
しかも、かつての、
「自費出版社系」
と言われる詐欺を、実際に見てきたのが、
「自分の青春時代だった」
ということも大きかっただろう。
当時のやつらのやり口は、
「小説家になりたい」
と思っている人が、出版業界における理不尽さを身に染みて分かっていたので、
「そんな理不尽なやり方を突破しよう」
という方法で、
「小説家志望の人たちを食い物にしてきた」
ということも分かってしまえば、
「もうどうやっても、無理だ」
と考えたことだろう。
質より量
元々、
「小説家になりたい」
であったり、
「本を出したい」
と思う人は結構いたのかも知れない。
しかし、趣味をしている人の中で、
「小説を書いている」
という人の話をほとんど聞くことはなかった。
そんな人たちが、ある時期、急激に増えたことがあったのだが、それは、ちょうど時期的には、
「バブルが崩壊してからすぐ」
ということであった。
世の中は大混乱し、リストラのあらしが吹き荒れた。
「早期自主退職」
などというものによって、
「どうせ会社がつぶれることになるのだろうから、なるべくたくさん、退職金をもらって会社を辞めるのも一つの手だ」
ということで、リストラという形で辞めていった人は多い。
つまりは、
「会社とすれば、収入に限度があるのだから、支出をなるべく減らすしかない」
と考えると、
「まずは、一番高いところから、人件費を削る」
ということになる。
リストラで社員を減らして、さらに、
「残業をさせない」
ということで、
「残業代をカット」
ということもしてきた。
いずれは、
「非正規雇用」
つまり、
「派遣社員などを使って、安い賃金で、しかも、簡単に首切りができる」
ということで、そちらに走ったものだった。
しかし、安いだけに、無理はさせられないということで、結局はそのツケは、その、
「残された社員」
に降りかかってくるわけで、それこそ、
「辞めるも地獄、残るも地獄」
ということになったことだろう。
だが、最初は、そこまで正社員にしりぬぐいをさせるところまではなかったのだが、そのせいで、残った社員の方は、残業がなくなった、いわゆる、
「アフターファイブ」
の過ごし方を考えるようになった。
「英会話を覚えて、スキルアップを図る」
あるいは、
「身体を鍛えるために、スポーツジムに通う」
などと、
「自分で努力をしないと、生き残れない」
と思ったのと、
「年功序列」
というものも、
「終身雇用」
というのも崩壊したということなので、
「何も会社に忠義を建てる必要はない」
だから、
「自分の身は自分で守る」
ということで、いろいろな、サブカルチャーなどの、スクールが流行ったのだ。
なんといっても、バブルの時期は、
「企業戦士」
と言われ、
「そればするほど金になった」
ということで、どんどん残業をしていたので、
「お金は入ってきたが、使う時間がない」
ということで、結構な貯金をしている人もいただろう。
そういう人が、これからの自分の身を守ることを考えると、
「いろいろなことを身に着けて、どんどんいい会社に売り込んでいく」
ということが大切だと思ったのだろう。
もっとも、どんなにその時いい会社かどうかわからないが、一寸先は闇ということで、
「会社なんかあてにならない」
とは思っても、
「一度身に着けた知識や力は、自分を裏切らない」
と考えると、カルチャースクールに通う人も多いだろう。
女性も、趣味をたくさん持っていないといけないということで、本当に数々の教室のようなものができた。
その中に、
「小説執筆」
というものがあり、実際にこの時期に、
「本を出したい」
という夢を持っている人が結構いたのだ。
実際に、
「自費出版業界最盛期」
と言われた時期の、その中でも有名なところは、
「出版部数が日本一」
と言われるまでに、
「会社を立ち上げてから数年しか経っていない」
というほどの勢いだった。
宣伝もすごいもので、ワイドショーなんかでは、
「最近のサブカルチャーの救世主」
とばかりにもてはやされ、著名人や有名作家や、今でいう、
「インフルエンサー」
のような人が、この業界を褒めちぎるものだから、
「少々お金がかかっても」
作品名:SFと歴史の分岐点小説 作家名:森本晃次