SFと歴史の分岐点小説
それも、30歳に近づいてきた頃。つまりは、
「最近のこと」
といってもいいだろう。
というのは、
「年を取ればとるほど、時間が経つのが早くなってくる」
と感じたからだ、
本当であれば、
「10代というものであれば、まだまだ子供で、ましてや、まだ社会にも出ていないという年齢ではないか?」
ということである。
しかし、それなのに、どこか、
「人生は短い」
という思いがどこかにあるくせに、
「20代の人のことを考えると、まったく前の見えないものを見ている」
ということで、
「まるで、五里霧中だと思えば、不安しかない」
と感じるのだった。
そもそも、これからの将来など、どうなるか分からないし、希望の方が大きいはずなので、不安に感じることなどないはずだ。
それなのに、不安に感じるということは、それだけ、
「先が見えないということに不安を感じているか?」
ということであり、
「不安に感じることが、その時までの人生で、一番つらいことになるのではないか?」
と感じているからだと思うのだ。
だから、
「希望よりも不安の方が大きい以上、その答えが待っているはずの未来になかなかたどり着かないと感じる」
ということからで、逆に、次第に分かってくることが多くなると、それまでの不安は、少しずつ解消され、
「無意識のうちに、何かがあった時などに、解決できるだけの能力が身についている」
と思うと、
「不安が次第に解消されてくる」
ということになる。
すると、未来への不安は少しずつ減ってきている。
だが、その分、希望も減ってきているのだ。
そのことを分かっていないので、それまで無意識に、
「なかなかすぎてくれなかった時間が過ぎるようになる」
本当であれば、
「過ぎていった中に、やり残したことがあるのではないか?」
という不安があるはずだが、
「終わってしまったことを後悔しても始まらない」
ということになる、
人間というものは、
「反省はするが、後悔をしてはいけない」
とよく言われるがまさにそのことで、
「過ぎ去っていったものに対して後悔をしてしまうと、それは反省ではなく、後ろ向きになる」
ということで、その後ろを向いてしまったことで、
「向いていた前が、今度は後ろになり、前にあったはずの無限が、今度は後ろにも見えてくるようになる」
そうなると、自分では、同じ速さで時間が過ぎていると思っているのだが、実際に自分が感じている時間というのが、本来動いている時間、つまり、
「不変だ」
と思っていた時間と比較すると、
「自分が感じている時間というものが、あっという間に過ぎてしまった」
という錯覚を覚えるのだった。
そのことに気づいてしまうと、もう、逃げられなくなる。
だから、
「年を取れば取るほど、時間が経つのがどんどん早くなる」
と言われるのだ。
実際にもそうのようで、
「なぜそう思うのか?」
ということは、
「科学的にも証明されていない」
ということのようで、そもそも、
「科学で証明できないということは起こりえないと決めつけることが、却って科学への冒涜につながる」
というものではないのだろうか?
それを考えると、
「実際に起こった」
ということが、
「起こりえない」
という勝手なそれまでの常識をぶち破ったということでの証明だということになれば、
「決めつける」
ということがおかしいと考え、
「起こりえないことが、冒涜だ」
と考えれば、
「人間の感覚などというものは、その時の感情で、コロコロと代わるものではないか?」
と思えるのだ。
だから、
「一人だけの意見であっても、重要なことは考えるに値する」
といえるのだろうが、実際に、
「今まで、都市伝説のように言われてきたことであれば、余計に、その理屈を考えるということは、面白いことであり、その面白さが、科学の発展につながると考えるのは、一足飛びすぎるだろうか?」
「小説を書きたい」
というのも、そのあたりからきているのではないだろうか?
「面白い」
という発想と、
「自分の想像が、本という形になる」
というのが、無性に面白いのだ。
「本というのは、手に取った感触、その匂い。それぞれに、感銘深いものがある」
しかも、実際に、探してみると、
「本を出したい」
という人がどれだけたくさんいるということなのかを考えると、本に対しての造詣の深さは、ハンパなものではないだろう。
それを証明するかのような事実として、今から、
「15年くらい前」
だっただろうか、
「自費出版社」
というものによる
「詐欺事件」
というものがあった。
30代である長瀬とすれば、ちょうど、青春時代を過ごしていたのだが、ちょうど大学に入った頃の、
「さあ、これから小説を書いていきたい」
と考えていた時代だったので、同じ年代で、本を出したいと考える人も結構いたようだった。
大学内には、
「にわか:
といわれる文芸サークルが結構増えたようで、その、
「にわか」
と言われる文芸サークルには、
「本を出そう」
という目的を明らかにしているサークルも多かった。
旧態依然とした、
「文学に親しみ、その中で小説を書くということに造詣を深めよう」
というだけのサークルもあったが、どうしても、
「本を出したい」
という人の方が多かった。
それは、
「はっきりとした目標があった方がやりがいがある」
ということと、
「どうしても、自分が、小説家になり、まわりからちやほやされる姿を想像して、にんまりとしてしまう」
ということが頭の中で融合してしまうということになるのだろう。
そもそも、
「小説を書きたい」
と感じたのは、
「本というものを手に取って、それを読みたい」
と感じたからではないだろうか?
それは、本という印刷物を物体としてみる目もあったからであり、そこに、作家の名前が書かれているわけで、そこに、名声もつながってくると思えば、
「本を出す」
ということが、どういうことなのかということが自ずと分かってくるというものであろう。
実際に、長瀬の場合は、
「本屋の雰囲気」
「作家ごとの色とりどりの背表紙が並んだ本棚」
「さらには、本に使われている、紙とインクの匂い」
というものすべてが、織りなす情景に、憧れがあったといってもいいだろう。
だから、
「自分の本を、本屋の本棚に並べたい」
と思うのは夢であり、だから、小説を書きたいと思うのだ。
どちらかというと、そっちの方が多いかも知れない。
想像力で小説を書いても、それが形にならないと、
「ただの趣味」
といっても、納得がいかないという部分はたくさんあるだろう。
小説を書いていて、
「この思いが褪せるということがあるのか?」
と考えるが、決定されるその結論は、
「そんなことなどあるはずがない」
ということに相違ないといえるだろう。
それともう一つ、
「文章を書くことで、生計を立てている」
ということがどういうことなのかということを知った。
それが、どういうことなのかというと、
「自分が好きなように、執筆をしていけない」
作品名:SFと歴史の分岐点小説 作家名:森本晃次