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SFと歴史の分岐点小説

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 というイメージなのだろうが、実際には、れっきとした使い分けに対しての、理由というものがあるのだった。
 というのは、まず、
「歴史小説」
 というのは、あくまでも、
「史実に忠実で、時代考証もしっかりしたものでないといけない」
 という定義がある。
 つまりは、
「学術的な嘘は書いてはいけない」
 ということである。
 だから、歴史小説家というのは、史実をしっかりと調べて書かないといけない。
「読者が勘違いするような作品を書いてはいけない」
 ということになる。
 つまりは、
「ノンフィクションだ」
 ということだ。
 しかし、時代小説というものは、時代劇の時代に限ったことではなく、
「戦国時代であっても、さらにその前であってもかまわない」
 しかし、これはあくまでも、
「娯楽性の高い」
 ということでの、
「エンターテイメントの世界」
 ということで、
「史実をテーマにした架空小説、つまりフィクションだ」
 ということになるのだった。
 そんな時代小説に対しては、
「どこか邪道だ」
 と考えることが多かった。
 あくまでも、架空の話ということで、歴史好きに対しての冒涜のように思えたからだ、
 この思いがあったからこそ、
「アニメやゲームを見て、歴史の世界に飛び込んでくる、歴女と言われる連中を、自分の中で許すことができない」
 と思っていたのだ。

                 アマチュア小説家

 長瀬は、
「アニメが嫌いだ」
 と思っていた。
 それは、
「アニメというよりも、マンガが嫌いだ」
 といった方が正解なのかも知れない。
 というのは、一つには、
「マンガで描かれた人物の絵が、皆同じに見えるからだ」
 実際に、同じ作家が描く違うマンガであれば、似ていても無理はないだろう。
「その人の作風だ」
 といえば、それが個性ということになるからで、しかし、
「同じ顔」
 に見えるのは、違う作者であっても、
 ということになる。
 これは、
「マンガ家が増えてくることで、誰かの絵に似せてしまうのが無理もないこと」
 ということなのか、
「人気漫画家になればなるほど、アシスタントが作画する」
 ということで、作画に対しては、学校のようなものがあり、
「そこで、皆基本から習うので、似たような作画になるというのも、無理もないことなのかも知れない」
 ということになるのだろう。
 劇画であったり、少女漫画であったりなど、
「どれを見ても同じにしか見えない」
 というのは、それこそ錯覚なのだろうが、そもそも、
「それでもいい」
 とみんなが思っているからで、
「長瀬のような男が変わり者」
 ということなのかも知れない。
「小説を書きたい」
 と思ったのは、
「そういう、皆似た絵しか描けない連中を見ていると、どこか情けなく思えてくる」
 と感じたからだった。
 しかも、小説は絵とは違い、
「想像力を掻き立てるもの」
 ということで、
「文章を使って、そのイメージを掻き立てる」
 顔も想像できないが、読んでいるうちに、勝手なイメージが出来上がり、それを想像力というのだとすれば、
「マンガに失望した分、小説にさらなる造詣が深くなったとしても、それは無理もないことだ」
 といえるだろう。
 ただ、小説に関しては、
「フィクション」
 というものに造詣が深い。
 実際に、
「小説を書いてみたい」
 と思うようになると、その気持ちは激しくなり、
「ノンフィクションというのは、小説とは呼ばない」
 とまでに感じるようになっていた。
 それはあくまでも、
「小説執筆」
 ということに対してであり、
「読書」
 というものでは、
「歴史小説に関してであれば、ノンフィクションでも、小説の中に入れてもいい」
 と考えていた。
 ただこれは、自分が、小説を書くということにおいては、その限りではない。
「あくまでも、自分が書く小説というのは、フィクションであり、フィクションの中に、事実が隠れている」
 ということは、ありだと思っていた。
 これは、発想として、
「木を隠すには森の中」
 と言われるが、この考えは、
「ミステリー小説などの、トリックであったり、証拠になるものの隠し場所ではないか?」
 と考えるようになったのだ。
 自分が、
「小説を書きたい」
 と思ったのは、中学生の頃が最初だった。
 最初は、ミステリー小説を書きたいと思っていて、ちょうどブームだったこともあったが、自分の中で、
「一番想像力を掻き立てる」
 というものだった。
 実際に、
「ドラマになる原作のジャンルとしては、ミステリーが多い」
 ということで、
「ドラマを見てから、原作を買ってきて読む」
 というのが多かった。
 そんなことを繰り返していると、
「自分も書きたい」
 と思うようになった。
 しかし、最初はそこまで行く前に辞めたのだが、その理由は、
「原作を読んでから、ドラマを見てしまった」
 ということからであった。
 そもそも、
「想像力が命」
 と言われる小説である、
「最初に原作を読んで、自分の中で膨らませた想像力を、ドラマ化することで、イメージが違うというのは、正直、どんな小説でも、先に内容を知ってしまった時点で、ドラマを見てしまうと、そのつまらなさが大きくなるだけだ」
 ということになるのだった。
 原作を読んでから、ドラマを見るということをしてしまったせいで、
「ドラマを見るのが面白くない」
 と思えてきた。
「元々は、ドラマを見て。原作を読む」
 ということを当たり前のようにしてきたことで、
「小説を書きたい」
 と思ったのに、ドラマを見て、その想像力が打ちのめされた気分がしてくると、
「小説というもの自体に興味を失ってくる」
 ということになるのだった。
 ただ、
「読書」
 ということに関しては、支障をきたすことではないので、相変わらず読んでいた。
 ただ、
「ドラマを見る」
 という気分になれず、
「映像や画像で紛らわされたくない」
 ということになってしまったのだ。
 だから、この時、
「小説を書きたい」
 という気持ちをあきらめることになったのだ。
 もっとも、
「高校受験」
 というものがあったのも事実なので、自分を納得させるという意味で、
「映像に惑わされたくない」
 という思いよりも、
「受験のため」
 ということが理由だと考える方が、自分を納得させられると考えたことで、
「画像に惑わされたくない」
 という思いが小説をその時諦めた理由にしたくないと感じてしまったのだった。
 高校時代は、それこそ、
「大学受験のための期間」
 ということで、それも仕方のないことであったが、何とか受験に成功し、大学生になることができると、
「大学に入れば今度こそ」
 と、小説を書きたいと考えたのだ。
 ただ。その時感じた思いは、少し歪なもので、
「中学からのここまでの数年間。無駄にした気がする」
 と思ったのだ。
 まだまだ10代ということで、本当はそんなことを感じなくてもいいはずなのに、そんなことを、
「どうして考えたのか?」
 ということは、その時には分からずに、20代以降で分かってきたのだ。