SFと歴史の分岐点小説
「貧富の差が激しくなることで、富を持っている人間だけが得をする」
という世界となることである。
それが、今の時代において、いかに大きな問題かというと、
「平等」
というものを犠牲にしたことで、収賄が巻き起こり、
「悪がのさばる」
という時代になるのだ。
さらに、民主主義の問題としては、
「多数決」
ということを常とすることで、
「少数派意見が、抹殺される」
ということになりかねない。
それが、
「民主主義の限界」
ということであれば、それを正すということで、
「社会主義」
というものが考えられた。
それは、
「平等」
を最優先とするもので、
「自由」
を犠牲にするというものである。
企業による、
「自由競争」
というものをなくし、平等を最優先と考えるとなると、
「給料は、役職間では、皆一緒」
ということになり、それによって、
「社会は、平等を取り戻す」
ということになるのだが、そのためには、競争がないように、
「すべての企業を独占企業とする」
ということになり、そうなると、
「企業というよりも、国営」
という形にする方が、すべて、日本であれば、
「親方日の丸」
とでもいえばいいのか、
「それだけ、国家の力を必要とする」
ということになる。
そうなると、
「すべての力が国家に集中する」
ということで、なるほど、
「差別はなくなるだろう」
しかし、国家に力が集中してしまうと、
「独裁」
ということになりかねない。
実際に、君主となるべく者は、
「いつまわりが、自分にとって代わるか?」
ということを考えると、絶えず、
「クーデターに怯える」
ということになるだろう。 そうなると、完全に。
「自分たちをまずは守る」
ということから始まる。
「政府の乱れは、国家の乱れ」
ということになり、民主主義の考え方では分からないかも知れないが、
「独裁国家」
というのは、恐怖政治を行うことで、自分たちの保身に走ろうとする。
確かに、政府が独裁を敷くというのは、自分たちの権力というものを誇示し、それに対しての欲からくる力ということで、
「独裁者のすることは、すべてが、私利私欲」
と思われるかも知れないが、そうであろうか?
実際に、民主国家といっても、結局は、
「弱肉強食」
の世界。
ということで、
「独裁者がいないだけの、まるで、偶有割拠」
という戦国時代のようではないか?
「配下のものが上のものを追い落とす」
というクーデターのようなものから権力を持ち。それぞれの領地から、
「国盗り」
というものを繰り返す。
実際に、
「天下を統一」
するということで、戦のない世界を築いたその先にあるものが、
「徳川幕府」
ではないか。
民主主義とはかけ離れていることから、
「戦争はなくなったが、幕府という独裁政府によって、民衆はすべて苦しめられる」
という時代になった。
いってみれば、
「自由競争」
というものが建前である民主国家は、
「戦国時代」
ということで、
「平等で戦のない政府」
というのが、
「江戸時代だ」
ということになるわけで、
「どちらがいいか?」
ということである。
ただ、時系列からいけば、
「群雄割拠の戦国時代」
つまりは、
「民主主義」
というものを悪いことだということで、
「戦のない世界を目指す」
ということで出来上がった徳川幕府」
つまりは、
「社会主義」
ということで、それこそ、
「民主主義の限界で出てきた社会主義」
と同じ時系列ではないか?
もちろん、時代というものと、その範囲とから、違うものに見えてくるが、そう考えると、
「時代というのは、時系列で動いている」
ということから、
「必ず、理屈にあった時系列をしている」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「民主主義」
と
「社会主義」
のどちらがいいのか悪いのか?
ということを、果たして誰が答えてくれるというのだろうか?
どちらも、
「一長一短」
いいこともあれば、致命的なところもある。
だから、社会主義の崩壊で、
「民主主義が正したかった」
というのは早急であり、
「だったら、今の世の中のこの乱れはどういうことになるんだ?」
ということになり、それこそ、
「社会主義の崩壊」
というのは、
「一つの時代が終わりを告げた」
というだけのことではないだろうか。
実際に、そのうちに、
「民主主義が崩壊することもあるだろう」
それが、
「世界の終わり」
という発想になるのかも知れない。
「盛者必衰」
「諸行無常」
というものである。
今の時代において、
「一寸先は闇」
という子t場があるが、まさにその通りであろう。
だから、
「せめて小説でくらいは。未来を勝手に想像したり、勝手に作り上げたりというのは、許される」
というものだ。
今回の話は、
「30年前から見た近未来である現在は、今の時代とはまったく違った世界になっている」
ということで、いわゆる、
「パラレルワールド」
という考えに基づいているようだ。
つまりは、
「タイムパラドックス」
というものが、
「過去に戻って、歴史を変えることで、未来が変わってしまうのだ」
と考えると、
「今の時代は、過去から見ると、本当に正しい未来なのか分からない」
といえるだろう。
「いつどこで何かが起こって未来が変わるかも知れない」
というのが、
「タイムパラドックスだ」
ということであれば、そもそも、
「タイムパラドックス」
というものは、
「未来が現在ということになる」
という時系列の矛盾といえるだろう。
だが、その矛盾というのは、十分に考えられることで、それなのに、
「起こってはいない」
ということは、考え方を変えれば、
「未来において何が起ころうとも、起こっていることが正解なのだ」
ということになる。
そういうことであれば、どんなに悲惨なことが起こっても、
「それはそれで正解」
ということになり、前述の。
「歴史が答えを出してくれる」
というのは、ありえないといえるだろう。
つまり、
「答えなど出す必要はない。時系列で勝手に流れていたことが、すべて正解」
ということになるからだ。
それはあくまでも、
「未来と過去を行き来する」
ということから出てくる結論である。
未来にも過去にも行くことができないのであれば、まったく信憑性がないものだ。
確かに、
「未来も時間が経てば、現在となり、その答えが見える」
ということになる。
しかし、その時未来を一緒に見ていた人が、まったく同じように感じるとは限らない。
すべての人間が、その見ていた未来を、
「これが正解だ」
と思わないと、正解ではないのだ。
だから、
「何が正解なのか?」
ということを歴史に求めてはいけないということになるのだ。
それを考えると、小説を書いていて、
「未来や過去に行ける」
という発想は、決して無理なことではなく、そもそも、その発想なくして、過去や未来に思いをはせることはできないのだ。
だから、
作品名:SFと歴史の分岐点小説 作家名:森本晃次