SFと歴史の分岐点小説
ということであったり、
「その時の大衆に受け入れられるか?」
というだけのことで、
「ブーム」
というのは、数十年もすれば、すたれてしまうものだ。
もちろん、それが本物であれば、またしばらくすると、またブームになったりするもので、それは、よくわからない。
分からないからこそ、
「未来」
というものなのだろう。
過去のことでもそうである。
「過去の人が、必ず、正しいことを書いている」
と限らないし、
「現代の人が、過去のことを、本当に正しくその時代の人に伝えるとは限らない」
というのは、
「その時代時代において、その時の政権や。元首にとって都合のいいように、改ざんする」
というのは、当たり前のことである。
特に、
「豊臣の時代から、徳川になった時」
あるいは、
「徳川幕府から、明治政府に変わった時」
というのは、
「それ以前の政権を擁護するような書物であったり、言い伝えというものは、抹消されたりする」
というものである。
だから、徳川になった時、
「豊臣にまつわるものはすべて焼却されたり、大名も取り潰しにあったりなどということが起こったりした」
さらには、
「徳川から、江戸時代になった時、そもそも、武家政権で、幕府を作ってきたのが、源氏ということで、源氏に対しては、いいことが言われてきたが、平家に対しては、あまりよくは言われていなかった」
だから、平家筋である織田信長が、徳川時代にはあまりよく言われていなかったが、
「明治時代になってからは、見直されるようになったりした」
ということである。
そもそも、明治政府が、徹底的に倒幕を行ったのも、
「政権交代の時、反乱分子となりかねないものを徹底的に排除する」
ということからの考えであった。
そういう意味で、今では、
「武力による政権交代というのは、日本ではありえない」
ということであるが、実際に、クーデターなどが起これば、新しく起こした政権は、前の政権を徹底的に破壊し、
「まるで、この世に存在していなかったか」
のような形にすることは必定であった。
だから、
「過去というものを、政府がいかに伝えるか?」
ということで、教育などは特に、
「どこまでが正しいというのか?」
ということである。
今の時代であれば、そこまでひどいことはないだろうが、へたをして、
「過去の歴史が変わることで、政権運営ができない」
などという大発見があれば、政府はきっと、死に物狂いで、誰にも分からないように、策を弄するに違いない。
それを考えると、
「過去のことが分かった」
といって、学校で習う歴史が本当のことなのかどうか、怪しいといえるかも知れない」
ただ、実際に、
「過去言われてきたことが間違いだった」
ということは、今普通に起こっている。
というのは、
「政治的な打算」
ということではなく、あくまでも、
「考古学研究」
というものによる、
「発掘の成果だ」
といってもいいだろう。
それを考えると、
「未来において、今の状況を把握できような装置ができていれば。それが正しいのか間違いなのか、証明してくれることであろう」
昔見た映画で、確か、クーデターの話だったと思うが、クーデターに失敗した青年将校が、自分が連れ出し、反乱軍としてしまった部下を原隊に返す時のこと、
「歴史が答えを出してくれる」
といっているが、
「果たしてどうなのだろう?」
と感じた。
「どうせ、鎮圧を行った方が、反乱軍が間違っている」
という歴史を吹聴するに違いないからである。
「歴史というものが、勝者によって変わってくる」
ということは、今に始まったことではない。
どの時代にもあることで、
「勝てば官軍」
とは、よく言ったものだ。
だから、
「歴史というものが、正しいのか、間違っているのか?」
という答えを見つけるとすれば、それは、
「世界が終わった時でしか分からない」
ということであり、それを考えると、
「世界が終わっても、次の世界に続く」
ということで、その時生き残った人だけが、答えを知っているということになるのかも知れない。
いや、もう一つの考え方として、
「世界が終わるということは、人類がすべて死滅した」
ということになるのだろう。
ただ、これは、
「人類の世界」
ということで、他の動物が人間に代わって。君臨するという場合も、
「世界の終わり」
といってもいい。
ということは、
「誰も生き残っていないのだから、その答えを見ることはできない」
ということになるとすれば、少し考え方がおかしいといえるのではないだろうか。
それを考えると、
「いや、答えを見ることはできる」
と考える。
「それはどういう理屈で?」
というと、
「死んだ人間であれば、あの世から見ることができる」
ということで、ただ、それも、
「世界が終わってしまった」
ということであれば、
「輪廻転生」
において、人間に生まれ変わることはできない。
そうなると、あの世で生まれ変わることができずにさまよったり、地獄しかないということになると、この世の教えとして、
「世界の終わりを導いてはいけない」
ということになる。
その教えがあることは、元々、
「死んでからのあの世で、幸せになるために、この世で功徳をしたり、我慢をする」
ということだという教えも、
「どこか納得がいく」
というものである。
それが、
「未来や過去」
という時系列であったり、
「宗教の教え」
ということでの、あの世とこの世というもののつながりであったり、バランスなどというものが、いかに結びついてくるのか?
それが、今回の小説でのテーマであり、
「近親相姦」
というのは、あくまでも、
「テーマへのプロローグ」
であった。
絶対的な時系列
さて、この近親装荷の話というのは、今の時代というものではなく、主題は、近未来ということで、
「30年後」
ということであった。
ただ、いささかややこしく、実際には、今の時代がそもそもの主題、つまり、本当の話としての、
「現代」
というのは、ちょうど30年前、つまりは、
「世紀末近く」
というくらいのことであった。
時代というと、昭和が終わり、まさに、バブルが崩壊した時期くらいであろうか、
昭和から、平成に変わった時点で、起こったこととしては、
「国営」
というものがなくなったことであった。
世界でも、その影響というものがあり、
「社会主義の超大国」
ということで君臨していた。
「ソ連の崩壊」
ということもあり、社会主義国が一気になくなった時期でもあった。
社会主義というのは、基本的には、
「民主主義の限界というものへの挑戦」
ということであった。
民主主義というのは、そもそもが、
「自由、平等。博愛」
ということであったが、実際には、
「自由」
というものを最優先とすることで、
「平等」
というものを犠牲にするという社会である。
つまり、その影響として、
「自由競争」
ということで、
「弱肉強食」
ということになり、
作品名:SFと歴史の分岐点小説 作家名:森本晃次