SFと歴史の分岐点小説
当然、かなり厳しいものではあるが、以前のように、
「どこからどこまでがまずいのか?」
という曖昧なことで、攻撃はできないということになり、
時代としては、
「ビニ本」
というものであったり、
「アダルトビデオ」
などというものも、
「法律にのっとっていれば、販売できる」
ということで、流行りだしたものだった。
一度はやってくると、それを抑えるのは難しいというもので、
しかも、
「スマホなどのネットの普及」
ということから、配信機能を使って、たくさんのものが市場に出ることになるだろう。
そうなると、
「何でもあり」
と言われる時代がやってきた。
といってもいいのではないだろうか?
そんな中で、
「禁断」
とも言われている、近親相姦の話を書くことに決めた長瀬であった。
SF小説
近親相姦というのは、昔から、
「忌ななこと」
ということで、
「禁断」
と言われている。
諸説あったり、場所や国によっても、その意味合いが違っているということもあるだろうが、古今東西にわたり、
「いいこと」
ということであることはないといわれる。
その中でもよく言われることとして、
「近親相姦によって生まれた子供には、曰くが付きまとう」
ということで、さらに、
「遺伝する」
という言い伝えもあることから、近親相姦は、
「忌み嫌われる」
というのだ。
しかし、実際に、近親婚というのは、昔からあったことでもあった。
日本国においての、国家元首として長らく君臨してきた皇室においても、かつては、今であれば、
「近親婚」
と言われた関係において、婚姻が発生し、子孫をつないできたということもあった。
ただ、それが、果たして、
「子供に因果が襲ったという謂れがあったかどうかは怪しいところだ」
ということだ。
逆に、
「天才児が生まれる」
という話もあるくらいで、いわゆる、
「都市伝説ではないか?」
といえるのではないだろうか?
特に日本では、
「家を絶やさずに、存続させる」
ということが、一番大切なことだとされてきた。
江戸時代などは、
「跡取りがいない」
ということで、
「お家断絶」
ということから、
「改易」
という名の、
「お家断絶」
ということが行われてきた。
それによって。形成してきた藩の役人や、民は、路頭に迷うことになる。
それを考えると、いくら、
「藩の力を弱め、幕府の力を強力なものとする」
というためとはいえ、実際に、
「浪人があふれる」
ということから、
「江戸の治安が乱れる」
という社会問題となったのも事実であった。
そういう意味でも、
「家督の存続」
というのは大切なことであり、特に、
「男子出産」
は、必須事項ということで、
「たとえ近親相姦であっても」
ということもあったかも知れない。
「それなのに、なぜ、法律でも、そこまで厳しいことになるのか?」
というのが不思議でならないのであった。
どこかに理由があるのではと考えると、最初に思いつくのは、
「宗教的な問題からきている」
といえるのではないだろうか?
特に、
「血のつながり」
であったり、
「血にまつわる」
ということに宗教がかかわっていることは結構あったりする。
宗教によっては、
「輸血を許さない」
ということから、注射すら許さないとして、伝染病が流行った時、
「ワクチンも打ってはいけない」
あるいは、
「戦争などの被害を受けた重傷者であっても、輸血を受けることは許されない」
ということで、まわりが、輸血を拒否して、そのまま死んでしまうということも普通にあったりするというではないか。
宗教というのは、世界各国にたくさんある。
大きなものとして、
「仏教」
「キリスト教」
「イスラム教」
などとあるが、
「元々は、同じものだった」
という話がある。
それなのに、特に、
「キリスト教」
と
「イスラム教」
は、確かに一つだったといわれているにも関わらず、太古から、戦争の元になってきているではないか。
「十字軍」
しかり、
「今の時代での、中東戦争」
などにおける、
「アラブとイスラエル」
というような問題などがそうであろう。
もっとも、昨今の中東戦争の火種を撒いたのは、
「欧州の国」
による、
「二枚舌外交」
というものが、その災いの種であったが、へたに、中東では、資源となる、
「石油」
が出ることによって、その利権をめぐっての争いが、今の時代では、
「ゲリラ」
などによって、紛争として、絶えず残っているということになるのだった。
そういう意味で、
「宗教ほど、うさん臭いものはない」
と考える人もいるだろう。
特に、新興宗教などは、
「宗教団体」
ということで、金を貪ったり、国家転覆を狙うための隠れ蓑としている連中もいたりして、許しがたいものであろう。
今回、長瀬が書こうと思った小説は、そんな
「近親相姦」
という発想に、
「宗教団体」
といううさん臭さを交え。さらに、SF的な、
「未来の時代」
というものを描こうと考えたのだった。
なかなか、未来というものを考えるのは、正直、難しいものであった。
「SF小説というものに、過去からつながる未来にかけての話」
というのは、付き物であり、本当は、
「歴史を知らずに、未来のことを書く」
ということは、
「ご法度だ」
とすら思っているのであった。
ただ、
「小説というものは、あくまでも、架空の話」
つまりは、
「自由な発想が、幅を広げる」
ということで、
「必ずしも本当のことを書く必要はない」
というのが、長瀬の発想だった。
もっといえば、
「本当のことを書かないでいい代わりに、いかにも本当のことであるかのように思わせるだけの書き方が必要になる」
という考え方だった。
もちろん、
「嘘をいかにも本当のことのように書くわけではなく、曖昧で分かっていないことを、もっともらしく書く分には問題ない」
と思っている。
だからこそ、架空の話として、
「過去であったり、未来の話」
というのは、そもそもが曖昧なのだから、
「うまく書くことができる」
といってもいいだろう。
しかし、長瀬の場合は、
「歴史に対して造詣が深い」
ときている。
だから、真実と思えることも分かっているので、それを、
「いかに曖昧に、そして本当のことのように書けるか」
ということだ。
本当のことを本当に書くのではなく、
「はっきりと分かっていないことだ」
ということを匂わせながら、
「まるで本当のことのように思える」
という言い方と、
「そこに信憑性を抱かせるだけの考えを植え付けるという手法を使いこなせるか?」
ということが、
「小説家」
ということで、
「プロであろうが、アマチュアであろうが関係ない」
ということであった。
「プロかどうか?」
というのは、あくまでも、
「本が売れるかどうか?」
ということであり、
「本が売れるのは、あくまでも、その時のブームにのっとっているか?」
作品名:SFと歴史の分岐点小説 作家名:森本晃次