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正悪の時系列

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「天職なのではないか?」
 と思えた、
「朱に交われば赤くなる」
 ということは、それだけ、
「相手の立場に立ってみることができる」
 ということであり、さらには、
「他人事のように客観的に見ることができる」
 ということでもある。
「客観的というのは大切だが、実は、他人事のように見れるというのは、ジャーナリストとして大切なことだ」
 と、自分なりに解釈し、後輩たちには、そのように話をしているということだった。
 実際に、雑誌社の人にも同じようなことを言っていて、
「俺のような男を相手にしてくれるような人は、これくらいの考えを持っている人でないと務まらないかも知れないな」
 と、口ではへりくだったような言い方をしているが、実際には、
「これが、俺の考え方だ」
 ということを言いたいのであろう。
 それを考えると、逆に、中里としては、
「これくらい不可思議な町の取材は、俺にしかできないかも知れないな」
 という自負があった。
 だからこそ、自分に対して、取材に応じてくれる人が多いというのは、そのせいだと思っていたが、相手が何を知りたがっていると感じた時は、少しショックだったといってもいいだろう。

                 同じ名前の店

 だが、それも、一瞬のことで、
「逆に相手が、自分から何かを探りたいと思うのであれば、こっちは、その何かを探ってやろう」
 と思うようになった。
 だから、こっちが相手の思惑に気づいているということを、悟られないようにしないといけないと思うのだった。
 案の定、田舎の人というのは、用心深いように見えて、意外と、
「抜けているところがある」
 と思っていた。
 というのは、あくまでも、
「よそ者意識をしている」
 ということで、相手は、自分たちの思惑が分かるわけはないと思っているのだった。
 つまりは、
「相手をよそ者と思っているのだから、相手もこちらのことを、変な目で見ているだろうと考えると、どうしても、相手を下に見てしまう」
 という感覚に陥る。
 つまりは、
「自分たちの方が上だ」
 という圧倒的な考えを持つことで、自分たちがまるで千里眼のように思っているのだろう。
 しかし実際には、
「千里眼どころか、まったく見当違いに思えるところを見ているということになるのだ」
 ただ、それはお互い様ということで、結局、
「交わることのない平行線だ」
 ということを、田舎者も都会者も感じているくせに、実際には、
「どこかですれ違っていることに気づかない」
 ということである。
 その理由というのは、
「あまりにも、そのすれ違った場所が目の前だった」
 ということで、それこそ、
「灯台下暗し」
 ということになるのか、それとも、
「石ころのような存在」
 ということになるのであろう。
 広義の意味で考えると、
「灯台下暗し」
 というものと、
「石ころのような存在」
 というものは、それぞれに違っているものと考えてもいいのだろうが、広義ということになるっと、逆に、
「似ている」
 といってもいいだろう。
「灯台下暗し」
 というのは、
「あまりにも目の前にありすぎて、気づかない」
 ということになるのだろうが、
「石ころのような存在」
 というのは、
「そこにあるのが当たり前」
 という意識が働いて、
「たくさんの中に紛れているとすれば、その中から意識するのが難しい」
 という意味でのことが、
「灯台下暗し」
 ということとの違いではないか?
 と考えるのであった。
 つまりは、
「木を隠すには森の中」
 ということとよく似ているといってもいい。
 それが、
「河原にある石ころ」
 などと似ていることから、
「石ころのような存在」
 ということになるのだろう。
「自分たちにとって、石ころというもの」
 というものを考えた時、
「田舎の人から見た目と、都会の人から見た目とでは、どちらが、、気づかないものなのだろうか?」
 と考えたことがあった。
 確かに、都会の人間であれば、
「世知辛い世の中を生きているのだから、いちいち細かいことを見ていられない」
 ということから、
「石ころの効果」
 というのは十分だろうと考える。
 だからといって、
「石ころとして見逃してしまうのは、細かいことを見ているから」
 ということではなく、むしろ、おおざっぱすぎることで、
「何かを探す時、周りからどんどん狭めていく」
 ということを考えると、却って、
「見えている方なのかも知れない」
 と感じる。
「じゃあ、田舎の人間ではどうだ?」
 と考えると、今度は、
「自然の中に普通にたたずんでいるものであるわけなので、それこそ、ことわざにある、
気を隠すには森の中という発想から、見過ごしてしまうとすれば、それは、石ころの存在という発想からではないか?」
 と考えるのだった。
 結果としては、最初と同じになるかも知れないが、最初の考え方の向いている方向が違うということで、
「やはり、交わることのない平行線ではない」
 ということになるだろう。
 しかし、
「一直線である」
 ということには違いはないと思っているので、
「一度すれ違ってしまうと、今度重なるまでに、相当の時間を要する」
 ということで、
「その時に気づくか?」
 と言われると、
「気づくわけはない」
 といってもいいだろう。
 つまり、
「田舎と都会」
 というものは、
「容易にすれ違うものであり、一度すれ違ってしまうと、次にすれ違う時が来た時には、すでに、それぞれを意識するということはなくなるに違いない」
 といえる気がしたのだ。
「人のうわさも75日」
 という言葉があるが、
「田舎と都会」
 というものを意識するとすれば、最初を通り越すと、難しい。
 しかし、できないことはない。
 というのは、最初が、
「都会と田舎」
 と考えていたとすれば、途中まで行ってから、
「すれ違わない」
 と思った時、見方を変えて、
「田舎と都会」
 という形で見る方向を変えてしまうと、
「見えないものが見えてくる」
 と感じるようになるのではないかということであった。
 それは、
「光の当たる角度によって変わってくる」
 というもので、
「反射や屈折」
 などというものが、光の角度を変えることで生まれてくる、
「光と影」
 というものが、
「世の中を二分している」
 と考えられる。
 そういえば、
「世の中で二分していて、対照的なものというのは、かなり多いではないか?」
 といえる。
「光と影」
 というのもそうであるし、
「表と裏」
「昼と夜」
 その中に、
「田舎と都会」
 というものがあるといえるだろう。
 この
「二分する」
 という発想は、
「それぞれに対照的である」
 という考え方と、もう一つは、
「それぞれの存在以外には、他には何もない」
 という発想である。
「だからこそ、対照的なものなのだ」
 といっていいだろう。
「表と裏であれば、表と裏が対照的で、それ以外に中途半端なものはない。逆にいえば、裏でなければ表だ」
 という発想が成り立つということであろう。
作品名:正悪の時系列 作家名:森本晃次