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正悪の時系列

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 もちろん、税には上限があるだろうから、市では、
「別の税金」
 ということで徴収されることになっていた。
 もちろん、こちらは任意で、強制力はないが、この税は、
「確実に、市民の生活に直結している」
 ということで、ほとんどの人が加入している。
 それこそ、
「欧州で、社会福祉が充実した国の税が高い代わりに、ゆりかごから墓場までという言葉で言われるような福祉が充実している」
 というようなものである。
 正直、今の国家における、
「税制度」
 というのは、あまりにもいい加減で、実際には、
「我々が収めた税金が、いかに使われているのか?」
 ということが曖昧だと言われている時代ではないか。
 実際に、
「消費税」
 というものが、その設立目的として、
「社会福祉の充実のために使う」
 ということだったはずなのに、その設立時から考えれば、
「消費税は、どんどん高くなるくせに、社会福祉は、最悪になってきている」
 ということであり、
「消費税を導入していなければ、社会福祉というものは、崩壊していた」
 と、政治家は言い訳をするかも知れないが、公約として、
「社会福祉に使う」
 ということが守られておらず、
「税率を上げてきた、その分の使用目的も曖昧だ」
 ということで、どんな言い訳をしたとしても、
「公約違反に変わりはない」
 ということになるだろう。
 今から思えば、15年くらい前に起こった、
「消えた年金問題」
 というのが思い出される。
 これは、
「起こった」
 というような、
「他人事」
 ではなく、
「政府のずさんな管理が引き起こした、
「人災だ
 と言われたものだった。
 政府において、年金を消したというか、
「国民から徴収した年金を、きちんと帳簿につけているはずなのに、やり方がずさんでmそれが、ずっと長年そのまま続いてきたことで、
「誰がいくら腹遭ってきたか?」
 ということが分からなくなり、
「誰にいくら支給すべきか?」
 ということであったり、
「もらえるべき人間にいきわたらない」
 などというずさんなものだったのだ。
 そもそも、
「税金を取り扱う部署」
 というと、
「厚生労働長」
 というところである。
 そこが、ずさんな管理を続けてきて、しかも、誰も、それをおかしいと思わずに、行われてきたということで、
「本当に、災害なのだろうか?」
 と考えられなくもない。
 どこかの誰か、一部の特権階級が甘い汁を吸うために、わざと行われたことだとは言えないのだろうか?
 そんなことを考えると、それこそ、
「何も信用できない」
 ということになり、
「政府が崩壊してしまう」
 といってもいいだろう。
 しかし、
「不正は不正として正さなければ」
 ということになるのだろうが、今の時代に、
「本当の勧善懲悪のヒーローが出てくるのだろうか?」
 ということである。
 それこそ、昔の講談の主役というべき、
「水戸黄門」
 のような人が出てこなければ、このまま、国家の崩壊を待つしかないということになるのだろうか?
 だから、
「今の政府が信じられない」
 ということになると、
「自分の身は自分で守る」
 と考える人も増えてくる。
 だから、
「政府に納める税とは別に、自分たちが影響力を持つことができる自治体に、まるで、貯蓄という形で納めておいて、それを使って、社会福祉施設を新たに設ければ、それに越したことはない」
 と考える。
「そもそも、社会福祉に税を使う」
 といっていたのだから、そもそもの趣旨に戻っただけではないか。
 ということである。
 そんなことができるところは全国でも、有数でしかなく。それでも、
「いくつかはある」
 ということなので、
「一つの自治体を支配できる層がある」
 というくらいの富裕層が、
「まだまだ日本にはいる」
 ということであろう。 
 ただ、このような市が、
「日本の理想」
 ということではない。
 逆に、
「民主主義の悪いところだ」
 といえるだろう。
「民主主義」
 というのは、
「自由、平等、博愛」
 ということから始まっている。
 特に、
「自由」
 と、
「平等」
 というものは、それぞれに、問題をはらんでいて、
「どちらかを取れば、とちらかが犠牲になる」
 といってもいいことで、民主主義においては、
「自由」
 というものを取ったせいで、
「平等」
 というものが、犠牲になっているのだ。
 そもそも、
「人間は、生まれながらに平等で」
 ということをいう考えがあるようだが、果たしてそうだろうか?
 生まれてくる時というのは、
「誰のところに生まれるか?」
 ということは決まっていない。
 つまりは、
「裕福な家庭に生まれるか?」
 あるいは、
「貧乏な家庭に生まれるか?」
 ということを選ぶことはできない。
 確かに、
「努力すれば努力は叶う」
 と言われるが、
「貧乏な家に生まれた子供が、大人になって、おお金持ちになる」
 ということは、それこそ、物語ででもなければありえないだろう。
 そもそも、金持ちになるには、貧乏な家庭に育った場合は、その才覚がなければいけないだろう。
 才覚があるなしに関わらず、
「同族企業の息子」
 に生まれれば、最初から、
「経営者の道」
 というのは約束されているといってもいい。
 子供のころから、大人になるために、
「帝王学」
 というものを学ばされているからだ。
 それも、
「お金があるからできる」
 ということで、学校の勉強以外に、そういう
「帝王学を教える」
 という家庭教師を雇って、英才教育をすることになるからだ。
 しかし、貧乏人は、
「英才教育を受けようとしても、そのための、授業料を供出することができない」
「その日暮していくだけで精一杯という状態で、誰が、帝王学など勉強できるというのか?」
 ということになるのだ。
 帝王学というものが、
「必ず、自分を金持ちにしてくれる」
 というわけではないのかも知れないが、
「帝王学を学ぶ」
 ということは、
「会社を運営していくうえでの最低限のものだ」
 といってもいいだろう。
 とにかく、
「民主主義」
 というのは、
「基本は自由だ」
 ということである。
 自由を優先すると、当然、競争も自由ということになり、
「弱肉強食」
 というものも、公然で正しいということになるだろう
 だから、
「支配階級」
 と、
「支配される階級」
 とに分かれることで、そこから、
「階級ができてしまう」
 ということになる。
 それを民主主義ということであれば、その欠点は、
「自由競争による平等がなくなることで、平等が失われ、平等ではなくなる」
 ということになる。
 だから、それを克服するということで考えられたのが、
「社会主義」
 というものだった。
 こちらは、
「平等というものを守り、貧富の差を作らない」
 ということにするにはどうすればいいか?
 という、
「民主主義の欠点を補い考え方」
 ということになるのだ。
 民主主義の欠点は、
「自由を優先して、平等を犠牲にする」
 ということなので、逆である、
「平等を生かすために、自由を犠牲にする」
作品名:正悪の時系列 作家名:森本晃次