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正悪の時系列

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 と考えると、
「大きな力で、平等を保障することで、自由を抑える」
 という政府である、
 つまりは、
「自由競争ができない」
 ということを基本と考えると、
「会社というものを、民間経営にする必要はない」
 ということになり、
「会社はすべて、国営」
 ということにして、給料も皆平等で、生産も国家の計画に沿って決められるということになる。
 つまりは、民主主義においての企業が、社会主義においての国家ということになり、
「国家による独占」
 となるのだ。

                 二大勢力

 一見、
「社会主義は、貧富の差を生まない」
 ということで、
「素晴らしい国家」
 と考えられるのだろうが、実際には、
「競争がないということで、向上心がない」
 と考えられる。
 つまりは、
「いくら個人が頑張ったとしても、すべて、国家の成果だということにされてしまい、個人のやる気がなくなる」
 といってもいい。
「いくら頑張っても、金銭的にも名誉としても報われないのだから、皆と同じで何も考えずに毎日を同じように過ごせばそれでいい」
 と思うことだろう。
 そうなると、開発しようと考える人がいないわけで、それこそ、
「宝の持ち腐れだ」
 といってもいいだろう。
 だから、発展性がないので、民主主義国家と、開発競争を行っても、勝ち目はないということになる。
 しかし、
「国家としてはそれでは困る」
 ということで、
「開発者に対しては、特別の恩恵を与える」
 という考えであるか、逆に、
「政府による国家権力で脅しをかけることで、強引に開発をさせるか?」
 ということになる、
 つまり、社会主義国家において、民主主義国家に立ち向かうには、
「国家権力をフルに使う」
 という必要があり、
「国家権力による、恐怖政治」
 というものがまかり通るということになるのだろう。
 そもそも、
「民主主義の限界」
 というものを克服するということから考えられた社会主義国家であるが、
「戦後には、かなりの勢力圏を維持していた」
 という時期があったが、その総帥といってもよかった、
「ソ連」
 というものが崩壊し、今では、いくつかしかも凝っていない社会主義国であるが、だからといって、
「民主国家が正しかった」
 ということになるわけではない。
 むしろ、
「民主主義国家の問題は、今に受け継がれ、このまま永遠に続くことになるだろう」
 といえるのではないだろうか?
 ただ、
「民主主義が正解だった」
 ということが証明されているわけではないので、次の時代というのが、どういう到来になるか?
 ということを考えると、
「社会主義に変わる、別の主義国家が台頭してくるのではないか?」
 と考えられる。
 それは、
「歴史は繰り返す」
 と言われるが、このままいけば、
「20世紀当初から繰り返される、戦争の歴史」
 ということになるのではないだろうか?
 それこそ、
「東西冷戦」
 のような、
「それぞれの主義が世界を分離し、その体制が、戦争という形で、
「世界を滅ぼす前兆」
 となるのではないだろうか?
 ただ、当時の、
「消耗戦」
 であったり、
「破壊戦争」
 と呼ばれるものとは、若干形を変えているかも知れないが、違った形で、
「世界を滅亡に追い込む」
 といってもいいのではないだろうか?
 戦争というのも、時代とともに、その形を変えている。
 中世などでは、
「騎馬を使った戦争」
 であったり、
「剣や槍」
 での戦い。
 日本であれば、
「一騎打ちというものから、陣を組んで戦う」
 というやり方などがあった。
 そして、近代戦争は、刀や槍というものが役に立たず、拳銃やライフル、さらには、機関銃などの新兵器での戦争となり、さらには、20世紀に入ってからというのは、
「大量虐殺」
 と呼ばれるものが現れて、それが、戦争においての悲劇を生んだといわれてきた。
 最初は、大砲の攻撃から逃れるために、
「塹壕戦」
 というもので、
「塹壕に身を隠しながら戦う」
 ということで、膠着状態を呼んでしまった。
 それを打開するために、考えられたのが、
「動く要塞」
 といってもいい、
「戦車」
 というものだったのだ。
 さらに、海での戦いなどで、戦艦に気づかれることなく、水中から、相手を狙うということでの、
「潜水艦」
 というものの開発。
 さらには、
「無味無臭」
 ということで、相手に迫り、相手の身体を犯すということでの、
「毒ガス攻撃」
 というものまで生まれてきた。
 一度、毒ガスを食らうと、死なないとしても、非常な苦痛を伴う後遺症を残す」
 ということで、
「悪魔の兵器」
 といってもいいだろう。
 さらに時代が進むと、
「火炎放射器」
 なども生まれてきて、
「完全に、相手を確実に殺戮する」
 という目的とした兵器が開発されるようになるということであった。
 そして、
「航空機の発展から、戦闘機が生まれてくる」
 ということになると、
「空からの攻撃」
 ということになり、
「好機を打ち落とすための高射砲の開発」
 なども発展してきて、空から爆弾を落とすということになると、
「無差別爆撃」
 なども起こってくるのである。
 それこそ、
「民間人をも標的にする」
 ということで、
「戦闘員だけではない民間人も標的になる」
 ということであった。
 さらには、
「一発の爆弾で、大都市が焦土と化す」
 という悪魔の兵器まで出てくることになり、その爆弾の威力の大きさから、
「二次災害」
 というものまで深刻な問題となるほどであった。
 それが、
「核兵器」
 というもので、
「使ってしまうと、世界の滅亡を意味する」
 とまで言われるようになり、一時期神話として、
「核の抑止力」
 と呼ばれ、
「持っているだけで、平和が守られる」
 と考えられた時代があった。
「相手の国に照準を合わせたミサイルを配備する」
 ということで、
「相手が攻めてこない」
 ということになり、
「こちらが仕掛けない限りは、戦にならない」
 ということで、
「平和が守られる」
 ということになるのだ。
 それを、
「核の抑止力」
 という言い方で、
「それこそが平和だ」
 と思われていたのだ。
 しかし、実際には、あくまでも、脅しということでしかなく、
「計算通りにいけば、平和だ」
 ということで、
「そう簡単にいかないのが平和というものだ」
 ということを、どこかで必ず知るということになるのだ。
 実際に、
「平和というものが、どのように守られるか?」
 というのは、分からないもので、当然、
「どのように、破られるか?」
 ということも同じであった。
 もっと言えば、
「平和が保たれるか、破られるか?」
 というのは、
「紙一重」
 ということである。
 だから、平和に対して、国際問題となり、そこに、
「核の抑止力」
 というものがかかわってくると、一歩間違えれば、
「一触即発」
 ということである以上、
「ちょっとした勘違い」
 であったり、
「不慮の事故」
 というものから、
「核ミサイルのスイッチを押しかねない」
作品名:正悪の時系列 作家名:森本晃次