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正悪の時系列

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「陸に戻れば、自分の知っている人は誰もおらず、風景も変わっていた」
 ということと、
「数日間しか、竜宮城にはいなかった」
 ということをつなぎ合わせて考えた時、それを、
「未来に飛んだ」
 と考えたからだろう。
 なるほど、
「タイムパラドックス」
 という話になると、650年後という発想が変わってくるからではないか?
 と考えるが、
「浦島太郎が、本当は未来人で、タイムマシンに乗ってやってきた人だ」
 ということで、本来であれば、未来にも、本当は竜宮城は存在していたのかも知れないが、
「浦島ごとき身分の人間には入ることができない」
 という夢の世界が、過去から続いていたのに、タイムマシンの漂流地が、たまたま竜宮城で、
「過去の乙姫様は、そのこと、つまりは、浦島が未来の人間である」
 ということを知らず、その時代の、竜宮城にいるべき人と勘違いをしたというのであれば、
「この時点から、未来が変わってしまった」
 ということで、
「陸に帰る」
 といって、未来に戻ると、まったく違う歴史が進展していて、それこそ、
「誰も知っている人がいない、650年後の世界」
 ということになる。
 だとすれば、
「言葉が足りないということだけで、まったく違った解釈になるのではないか?」
 ということになるわけである、
「誰も知っている人がいない」
 という言葉と、
「650年後の世界」
 という言葉の間に、
「変わってしまった」
 という言葉が入っていれば、瞬時にして、
「浦島太郎という話は、タイムパラドックスによって、過去を変えたことで、未来が変わってしまった」
 という話になるということである。
 そもそも、
「おとぎ話」
 というのが、教訓となるものだということであれば、
「変わってしまった未来」
 としておく方が、よほど教訓になるといえるのだろうが、それが間違いだといえるだろうか?
 時系列の話を、前に読んだ、
「10分前を歩く女」
 という、
「SFチックな小説」
 と、
「浦島太郎」
 というおとぎ話から考えたところ、組み合わせて考えてみると、結構浮かんでくる発想もあったのだ。
 しかも、そこに、以前取材でいくことになった。
「田舎と都会の入り組んだ町」
 というところで、
「同じ名前の店を、兄弟で別々の地域でやっている」
 という話を組み合わせると、そこに、まったく別の時系列が広がることで、
「一つの小説ができてくる」
 という発想が浮かんできた。
 小説というものを考えた時、
「ミステリー」
 というものを基本にして、
「SFやホラー、オカルト」
 というものを組み合わせることで、それを結ぶカギとして出てきたのが、
「事例列」
 という発想であった。
 なるほど、時系列というのは、SFなどで、実際に決まっているルールの中で、さらに、
「ルール付け」
 というものをすると考えると、
「周りの人間に対しての、自由と平等というものが、対照的なものだ」
 ということも分かってくる。
 そこで、
「民主主義のように、自由を生かすと、平等が壊れてしまう」
 と考えることから、
「民主主義には、限界がある」
 と考える。
 しかし、時系列であったり、合わせ鏡のように、
「交わることがない平行線」
 であったり、
「限りなくゼロに近づくが、決してゼロになることのない」
 という無限というものであったりという発想が、さらには、
「自由を生かしながら、平等を中心に据える」
 ということが難しいとすれば、
「最初から自由を優先するのではなく、平等というものを形を変えたものとして考える」
 という発想が成り立つのではないか?
 と考えた。
 それを小説にするのは難しいかも知れないが、それが、
「SF小説」
 というものであり、
「目に見えない」
 という、
「時系列の問題」
 とも考えられるのではないだろうか?
 時系列というのは、
「誰にでも平等に流れているものだ」
 だから、
「それを、別の自由な発想で考えるとすると、そこにできる世界は、今の次元とは違う世界ということになる」
 つまりは、
「時間の流れを自由に変えることができた」
 ということであったり、
「過去に行って、歴史を変えたとしても、その後の世界において、それは一切影響しない」
 という、
「そもそもが、タイムパラドックスありき」
 として考えるものだという発想である。
「タイムパラドックス」
 というものを、
「無限にある可能性の中の一つ」
 と考え、それが、
「パラレルワールドだ」
 と考えれば、
「無限と有限の境目の発想も分かってくるのではないだろうか?」
 たとえば、
「整数をいくら整数で割っても、ゼロにはならない」
 ということで無限を考えるという発想。
 さらには、
「無限から、何を割っても、無限しか出てこない」
 という発想から、今度は別の
「SF的発想が出てくるのだった」
 それが、ロボット開発においての、
「フレーム問題」
 というものである。
「次の瞬間には無限に広がる可能性がある」
 ということから、
「ロボットの人工知能では、その先の無限の中から一つを絞ることはできない」
 ということから、
「まったく動けない状態」
 ということになる。
 だったら、
「可能性をいくつかのパターンに嵌め込み、まるでフレームのようにいくつもにも分けた場合ということであれば、この問題は解決するかも知れない」
 と考えはしたが、考えてみれば、
「無限からは何で割っても、無限しか出てこない」
 ということから、
「いくら、フレームを作ろうとも、可能性を絞ることはできない」
 ということになり、
「フレーム問題は、可能性が無限であるということで、先読みができない」
 ということになるのであった。
 だから、
「ロボットに、自分の発想で行動させ、それで、最善の方法で行動させる」
 ということは無理なのだろう。
 確かに、
「人間でも、完璧というわけではない。むしろ、失敗する方が多いかも知れない」
 と言われるが、
「だったら、ロボットに別に完璧を求めなければいい」
 ということになったとしても、結果として、それ以前である、
「発想しか生まれない」
 ということなのだから、結果としては、どうにもならないといってもいいだろう。
 それが、
「結局は、無限ということでの問題」
 と考えれば、それに挑戦する形のSF小説というのも面白いものだ。
「別に俺はアマチュアなのだから、何も売れる小説を意識して書くという必要などない」
 というものだ。
 そういう意味で、
「時系列」
 というものは、
「これ以上、謎解きに必要というもので、そのキーを握っている共通点だ」
 といえるかも知れない。

                 大団円

 小説の中で、皆が考えるのは、
「時系列には逆らわない」
 という発想である。
 だから、
「10分前を歩いている女」
 ということで、
「交わることのない平行線というものを想像させ」
 そしてそこに、
「もう一人の自分」
 ということでの、
「ドッペルゲンガー」
 という発想を埋め込むということができて、
「SF小説」
作品名:正悪の時系列 作家名:森本晃次