正悪の時系列
「場所によって違う」
ということになれば、社会の理論というのは、大いに覆ることになる。
だから、基本的には、
「時間というのは、どの人間に対しても平等だ」
ということになるのだが、それを、
「百歩譲って、違う空間がある」
と仮定したときの話というのは、
「理論さえ間違っていなければ、SFとして十分な、小説になる」
ということになるだろう。
だから、正直、
「SF小説」
というのは、その理論が難しいのであって、逆に理論さえしっかりとして、逆説さえ建てられないものであれば、それだけで、
「立派なSF小説になる」
ということだ。
ただ、
「理論が難しいことから、簡単なトリックほど、実は複雑なのかも知れない」
というのは、
「簡単な理論的な話を一つの話に組み立てようとすると、そこには、
「ストーリー性」
というもので補う必要があるということになる。
しかし、
「完璧なトリック」
と思えるような話であれば、そのトリックというのは、
「一つが理路整然としていれば、すべてが、きちんとつながっているものであり、その分、理解も難しくはない」
というもので、その流れが、元々、
「時間や時系列は、狂うことはない」
と言われるゆえんだといってもいい。
だから、一つの
「動かしがたい真実」
というのは、時空を超えても変わりがあるものではなく、勝手に、完璧なトリックを作り上げているといってもいいだろう。
そんなことを考えていると、
「人間にとって、近未来への造形」
というものは、自ずと、目の前にある、
「解決することができないものだ」
といってもいいだろう。
なぜなら、
「解決できる」
ということであれば、すでに、解決していて、どんどん科学の発展というものが見られるはずだ。
特に、
「パソコン」
であったり、
「ネットの世界」
というのは、どんどん発達していって、今から30年前から比べれば、まるで別世界といってもいいだろう。
しかし、
「ロボット開発」
であったり、
「タイムマシン開発」
というのはどうであろう。
ロボット開発」
というと、問題は、
「人工知能」
昔でいえば、
「電子頭脳」
と呼ばれていたものだ。
これは、
「人間のいうことをただ忠実に聞く」
というだけではだめなのだ。
なんといっても、一番の問題は、
「フランケンシュタイン症候群」
などに見られる、
「人間を傷つけない」
という発想である、
そもそも、
「人間の役に立つために作られるロボットというものが、人間を攻撃したり、人間に歯向かう」
などということは、本末転倒である。
しかし、これも、
「悪意のある者にこのような機会を握らせると、悪質なおもちゃという程度では済まされない」
つまりは、
「人間存続の危機」
ということになるのだ。
さらに、ロボットを、
「自分の意思をもって動くようにしないといけない」
ということから、
「これから起こる」
と言われる問題を自分でしっかり理解して解決しなければいけない。
しかし、
「これから起こる問題」
というのは、実は、
「無限に存在している」
というわけで、人間や動物は、それを難なくこなしている。
それを、本能という言葉だけで片付けられるということなのか、結局、
「人間がロボットを作っている以上。そして、このメカニズムが分からない以上、どうしようもない」
ということで、
「イタチごっこ」
ということになるのだった。
そして、今度はタイムマシン。
こちらの問題は、
「タイムパラドックス」
というものの解決方法である。
「過去に趣いて、過去を変えてしまう」
ということはしてはいけないといわれる。
なぜかというと、
「過去を変えてしまうと、未来が変わってしまう」
ということで、ただ、これも、
「なぜ未来が変わってはいけないのか?」
という根本的な理由はハッキリと分かってはいないが、
「目の前のこととしてハッキリと分かっている」
というのは、
「過去に行った人が、そのまま未来に戻ろうとしたときに、未来が変わっている」
ということになるからだ。
「どこかで未来が変わってしまった」
としても、その時系列の線上にいる人は、そのことを意識していないので、どんなに悪いことであっても、
「過去からの因縁なので仕方がない」
といえるだろう。
また、これが逆だったらどうだろう?
「何も変わっていない未来であれば、不幸のどん底だったのに、未来を変えてくれたおかげで、最悪の人生から解き放たれ、幸せに生きられるとすれば、その人たちを元に戻すのは、忍びない」
つまり、
「知らぬが仏」
ということであると考えると、
「ひょっとして今起こっているこのことだって、どこかの誰かが(多分、未来の人間なのだろうが)過去に飛んで、変わった未来なのかも知れない」
といえるだろう。
もちろん。その人は未来に戻っても、そこには、自分の知っている世界はないのかも知れないが、それこそ、浦島太郎のようではないか?
そんなことを考えていると、
「浦島太郎」
の話というのは、それが教訓だったのかも知れない。
というのは、浦島太郎の話が、
「玉手箱を開けて、おじいさんになった」
ということをラストだと考えると、分かってくるというものだ。
「玉手箱」
というものを開けると、おじいさんになるというのは、誰がどう考えても、
「悲劇の話だ」
といえるだろう。
「浦島太郎はカメを助けるといういいことをしたのに、なぜ、最後不幸にならなければいけないのか?」
とも言われている。
もっとも諸説ある中で、最後にはハッピーエンドという話もないわけではない。
もっというと、
「浦島太郎」
というのが、戻ってみると。
「自分の知らない世界になっていた」
というのは、一見、
「アインシュタインの相対性理論」
と言われる。
「光速で移動すれば、普通の速度で移動している人に比べて、時間が経つのが遅い」
と言われていることと、同じ発想だと考えている人が多いわけだが、
「光速で移動した時、身体が耐えられるのか?」
などという細かいところを突き詰めると、あまりにも矛盾していることも多いはずだ。
だとすれば、他の発想も十分に考えられるというもので、
「これが、タイムパラドックスの発想だったら?」
と考えることもできるのではないだろうか?
つまり、
「浦島太郎が何らかの原因で過去に行き、その過去を変えてしまったことで、戻ってくると、まったく未来が変わっていた」
ということである。
確かに、どちらの話も、
「信じがたいことだ」
といえるが、同時に、
「片方に少しでも信憑性が考えられるのであれば、こちらも同じくらいに信憑性がある」
といってもいい。
そういう意味では、
「どうして、タイムパラドックスの発想」
というのがないのか?
ということである。
その一つには、
「浦島太郎の話に、650年後の未来に行ってしまった」
と明記されているからで、ただ、それがなければ、どのような発想に経ったというのだろうか?