正悪の時系列
「目が覚める」
と思った時、本当に気づけば目が覚めていたのだ。
しかし、
「その時に見た夢がどんなものだったのか?」
というのは、
「覚えている時の方が珍しい」
と感じることが多かった。
目が覚めるということで、覚えている夢というのは、いつもきまっているような気がした。
というのは、2種類あり、一つは、
「怖い夢を見た」
と感じる時だった。
何かのショックのようなものがあるのか、はたまた、前世での記憶でも戻ってきたというのか?
さらに、もう一つは、
「怖い夢」
ということと、リンクするかも知れないが、
「もう一人の自分を見た」
と感じた時であった。
これを高校生くらいの頃から、
「ドッペルゲンガーというものを意識するからだろうか?」
と思った。
「もう一人の自分」
つまり、
「似て非なるもの」
の正反対である、本当の自分。
それを見ると、
「近い将来死んでしまう」
ということで、その恐怖が、精神状態と絡み合うことで、夢の中に、ドッペルゲンガーというものを見せることになるのだろう」
と考えたのだった。
だが、この二人の兄弟の場合は、
「ドッペルゲンガーではなく兄弟だ」
と思うのだった。
そして、もう一人の自分が、途中から、実は夢の中で入れ替わっていた」
ということに気づいたことで、夢から覚める、儀式のようなものとなったということであった。
実際に、
「兄弟」
というものが、世の中にはたくさんいるが、一人っ子の人も結構いる。
だから、
「一人っ子の人間にだけ、ドッペルゲンガーは兄弟の代わり」
ということで感じさせるのではないか?
と、思うのだった。
実際に、この村に限れば、
「対照的なものが多い」
と考えると、
「そんな村で生まれ育ったのだから、兄弟がいなければ、ドッペルゲンガーが代用してくれる」
というのも、ありの発想ではないだろうか?
「実際に、世の中において、ドッペルゲンガーを太古の昔から信じられていて、誰も疑うという人はいない」
といってもいいだろう。
「これだけ昔からあれば、それに対しての、反対意見であったり、反対の説を証明するような話があってもよさそうだ」
といえる。
それこそが、
「都市伝説」
というものではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「夢を見た時、お互いに兄弟で、同じ夢を共有しているのではないか?」
と考えたが、
「その間、夢の本番では、お互いの目が入れ替わっている」
と考えられる。
そのことが、
「おかしなことだ」
という風に考えるから夢が覚めるのだろう。
だから逆にいえば、
「夢の中にドッペルゲンガーが出現したり、反対の立場から相手を見る」
ということも正しいと考えられるのだ。
と考えると、
「夢は共有しているものであり、まるで鏡の世界のようだ」
と思えてくる。
さらに、鏡というものの中で不可思議なこととして、
「左右対称にはなるが、上下が反転するということはない」
という考え方だ。
「見え方による、錯覚」
というものなのだろうが、
「鏡というのは、合わせ鏡にしても、不可思議なことが起こる」
というものだ。
さらに、
「鏡の世界」
というものと、
「錯覚の世界においての、上下さかさまに見えるもの」
ということで、
「サッチャー錯視」
などと言われるものがある。
「上下さかさまから見ると、同じものでも、まったく違って見える」
と言われるものであった。
時系列
小説を書く尾が趣味で、
「ホラー小説」
であったり、
「オカルト小説」
などを書くのが好きだった中里だが、最近では、
「SF系小説:
に対しても、造詣が深くなってきたのであった。
SF小説を気にするようになったのは、オカルト小説の中で、
「時間」
というものを扱っている小説を見つけたからだった。
その小説というのは、
「自分と同じ人間が、自分よりも10分前を歩いている」
という内容のものだった。
まったく同じ行動で、10分前を歩いているということで、一種の、
「交わることのない平行線を描いている」
ということで。
「無限」
というものを感じさせること、そして、
「その無限というものが、限りないという発想を抱かせ、それが、
「鏡」
などでよく言われる、
「合わせ鏡」
のような発想を抱かせたことだ。
それと同じ発想で、
「マトリョシカ人形」
というものを頭に抱かせて、それが、
「限りなくゼロに近いもの」
ということで、無限を思わせるのであった。
「合わせ鏡」
というものは、
「自分の左右」
であったり、
「前後に、自分を挟むように、鏡を自分に向けておいておく」
というものである。
そうすることによって、最初にどちらかの鏡を見ると、そこには、自分が写っているのは当たり前のことであるが、その後ろには反対側の鏡が、向こうを向いている自分を映し出しているのだ。
「さらに、その向こうには、またこちらを映し出す鏡があって……」
ということで、永遠に自分を映し出している。
しかも、そこには、
「鏡との間に距離」
というものがあり、その鏡は
「距離による遠近法というもので、どんどん小さくなっていくのだ」
これは、算数でいうところの、
「整数の割り算と同じ」
ということになり、これが何を示しているのかというと、
「整数を整数で割って、それを果てしなく続けていくとしても、それは、どんどん小さくなってはいくが、決してゼロにはならない」
ということである。
これは、逆にいえば、
「無限に数字がつながっていく」
ということで、
「限りなく」
そして、
「果てしなく」
ということにつながるのだ。
これは、
「マトリョシカ人形」
と同じで、どんどん、人形の蓋を開けていくと、小さくなっていく。
もちろん、手で行うわけなので、限りはあるが、あくまでも、理論上は無限だということである。
それを考えると、
「直線でずっと続いているものは、結果としては、同じことがいえる」
ということになるのだ。
そして、その果てしなく一直線に続いていると考えられるものに、
「時間」
という発想がある。
しかも、時間というものは、
「誰に対しても平等で、分け隔てのない」
というもので、
「一直線に続いている」
といえることから、
「時間というものほど、平等なものはない」
といえるのではないだろうか。
ただ、
「これが、生まれた時、ということになれば、確かに、生まれたタイミングであったり、その場所によって、平等では決してないかも知れない。しかし、それはあくまでも、その場面を切り取った時の断面を一直線に見た」
という場合のことで、つまりは、
「その切り取った時の断面自体が平等だ」
ということだ。
だから、その場面というのが、解釈次第によっていろいろ変わるのも仕方のないことで、時間そのものという、いわゆる、
「時間の概念に左右されることはない」
ということになるのだ。
時間というものが、仮に
「人によって、違っていたり」