小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

正悪の時系列

INDEX|13ページ/16ページ|

次のページ前のページ
 

「目が覚める」
 と思った時、本当に気づけば目が覚めていたのだ。
 しかし、
「その時に見た夢がどんなものだったのか?」
 というのは、
「覚えている時の方が珍しい」
 と感じることが多かった。
 目が覚めるということで、覚えている夢というのは、いつもきまっているような気がした。
 というのは、2種類あり、一つは、
「怖い夢を見た」
 と感じる時だった。
 何かのショックのようなものがあるのか、はたまた、前世での記憶でも戻ってきたというのか?
 さらに、もう一つは、
「怖い夢」
 ということと、リンクするかも知れないが、
「もう一人の自分を見た」
 と感じた時であった。
 これを高校生くらいの頃から、
「ドッペルゲンガーというものを意識するからだろうか?」
 と思った。
「もう一人の自分」
 つまり、
「似て非なるもの」
 の正反対である、本当の自分。
 それを見ると、
「近い将来死んでしまう」
 ということで、その恐怖が、精神状態と絡み合うことで、夢の中に、ドッペルゲンガーというものを見せることになるのだろう」
 と考えたのだった。
 だが、この二人の兄弟の場合は、
「ドッペルゲンガーではなく兄弟だ」
 と思うのだった。
 そして、もう一人の自分が、途中から、実は夢の中で入れ替わっていた」
 ということに気づいたことで、夢から覚める、儀式のようなものとなったということであった。
 実際に、
「兄弟」
 というものが、世の中にはたくさんいるが、一人っ子の人も結構いる。
 だから、
「一人っ子の人間にだけ、ドッペルゲンガーは兄弟の代わり」
 ということで感じさせるのではないか?
 と、思うのだった。
 実際に、この村に限れば、
「対照的なものが多い」
 と考えると、
「そんな村で生まれ育ったのだから、兄弟がいなければ、ドッペルゲンガーが代用してくれる」
 というのも、ありの発想ではないだろうか?
「実際に、世の中において、ドッペルゲンガーを太古の昔から信じられていて、誰も疑うという人はいない」
 といってもいいだろう。
「これだけ昔からあれば、それに対しての、反対意見であったり、反対の説を証明するような話があってもよさそうだ」
 といえる。
 それこそが、
「都市伝説」
 というものではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「夢を見た時、お互いに兄弟で、同じ夢を共有しているのではないか?」
 と考えたが、
「その間、夢の本番では、お互いの目が入れ替わっている」
 と考えられる。
 そのことが、
「おかしなことだ」
 という風に考えるから夢が覚めるのだろう。
 だから逆にいえば、
「夢の中にドッペルゲンガーが出現したり、反対の立場から相手を見る」
 ということも正しいと考えられるのだ。
 と考えると、
「夢は共有しているものであり、まるで鏡の世界のようだ」
 と思えてくる。
 さらに、鏡というものの中で不可思議なこととして、
「左右対称にはなるが、上下が反転するということはない」
 という考え方だ。
「見え方による、錯覚」
 というものなのだろうが、
「鏡というのは、合わせ鏡にしても、不可思議なことが起こる」
 というものだ。
 さらに、
「鏡の世界」
 というものと、
「錯覚の世界においての、上下さかさまに見えるもの」
 ということで、
「サッチャー錯視」
 などと言われるものがある。
「上下さかさまから見ると、同じものでも、まったく違って見える」
 と言われるものであった。

                 時系列

 小説を書く尾が趣味で、
「ホラー小説」
 であったり、
「オカルト小説」
 などを書くのが好きだった中里だが、最近では、
「SF系小説:
 に対しても、造詣が深くなってきたのであった。
 SF小説を気にするようになったのは、オカルト小説の中で、
「時間」
 というものを扱っている小説を見つけたからだった。
 その小説というのは、
「自分と同じ人間が、自分よりも10分前を歩いている」
 という内容のものだった。
 まったく同じ行動で、10分前を歩いているということで、一種の、
「交わることのない平行線を描いている」
 ということで。
「無限」
 というものを感じさせること、そして、
「その無限というものが、限りないという発想を抱かせ、それが、
「鏡」
 などでよく言われる、
「合わせ鏡」
 のような発想を抱かせたことだ。
 それと同じ発想で、
「マトリョシカ人形」
 というものを頭に抱かせて、それが、
「限りなくゼロに近いもの」
 ということで、無限を思わせるのであった。
「合わせ鏡」
 というものは、
「自分の左右」
 であったり、
「前後に、自分を挟むように、鏡を自分に向けておいておく」
 というものである。
 そうすることによって、最初にどちらかの鏡を見ると、そこには、自分が写っているのは当たり前のことであるが、その後ろには反対側の鏡が、向こうを向いている自分を映し出しているのだ。
「さらに、その向こうには、またこちらを映し出す鏡があって……」
 ということで、永遠に自分を映し出している。
 しかも、そこには、
「鏡との間に距離」
 というものがあり、その鏡は
「距離による遠近法というもので、どんどん小さくなっていくのだ」
 これは、算数でいうところの、
「整数の割り算と同じ」
 ということになり、これが何を示しているのかというと、
「整数を整数で割って、それを果てしなく続けていくとしても、それは、どんどん小さくなってはいくが、決してゼロにはならない」
 ということである。
 これは、逆にいえば、
「無限に数字がつながっていく」
 ということで、
「限りなく」
 そして、
「果てしなく」
 ということにつながるのだ。
 これは、
「マトリョシカ人形」
 と同じで、どんどん、人形の蓋を開けていくと、小さくなっていく。
 もちろん、手で行うわけなので、限りはあるが、あくまでも、理論上は無限だということである。
 それを考えると、
「直線でずっと続いているものは、結果としては、同じことがいえる」
 ということになるのだ。
 そして、その果てしなく一直線に続いていると考えられるものに、
「時間」
 という発想がある。
 しかも、時間というものは、
「誰に対しても平等で、分け隔てのない」
 というもので、
「一直線に続いている」
 といえることから、
「時間というものほど、平等なものはない」
 といえるのではないだろうか。
 ただ、
「これが、生まれた時、ということになれば、確かに、生まれたタイミングであったり、その場所によって、平等では決してないかも知れない。しかし、それはあくまでも、その場面を切り取った時の断面を一直線に見た」
 という場合のことで、つまりは、
「その切り取った時の断面自体が平等だ」
 ということだ。
 だから、その場面というのが、解釈次第によっていろいろ変わるのも仕方のないことで、時間そのものという、いわゆる、
「時間の概念に左右されることはない」
 ということになるのだ。
 時間というものが、仮に
「人によって、違っていたり」
作品名:正悪の時系列 作家名:森本晃次