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正悪の時系列

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「統治や統制を考えている連中からすれば、助け合いの精神は、利用しやすいものだといえることだろう」
 それを思えば、
「自分たちが、世の中に対して、いかに支配階級の連中から利用されているか?」
 ということに気づいていても、
「道徳」
 であったり、
「倫理」
 までもが、その考えに利用されるとは思ってもいない。
 考えてみれば、そうだ、
「民主主義」
 という世の中であるが、
「自由。平等、博愛」
 というものを推進しているが、
「自由」
 と、
「平等」
 というものは、
「相容れるものではない」
 つまりは、
「どちらかしか優先することができず、どちらかは犠牲になる」
 というものだ。
 民主主義の場合は、
「自由」
 というものを優先している。
 だから、
「平等」
 というものが犠牲になり、その結果、
「貧富の差」
 というものが激しくなり、それがそのまま、
「差別待遇」
 というものに結びついてくるということになるのだ。
 考えてみれば、
「人間は生まれながらに、平等だ」
 といっている人がいるが、それ自体が、
「まっかな嘘」
 ではないか。
 前述のように、
「貧乏人の親から生まれれば貧乏生活を余儀なくされ、金持ちに生まれれば、英才教育を受け、何不自由もなく暮らせる」
 ということだ。
 ただ、それは、
「状況として」
 ということであり、
「精神的なことは度返しして」
 との考えであった。
 だから、問題は、
「気持ちの中に、余裕が持てるかどうか?」
 ということである。
 少なくとも、貧乏で、
「その日の暮らしだけしか考えられない状態に、余裕というものがあるだろうか?」
 だからといって、金持ちの家に生まれた人が皆、心に余裕があり、その余裕を
「世の中をよくしよう」
 などと考えることが果たしてできるだろうか。
 それができるのであれば、金持ちは皆、
「慈善事業家」
 ということで、今のような貧富の差が広がることはない。
 むしろ、
「貧富の差は増していくばかりで、結局皆それを、民主主義なんだから、仕方がない」
 ということで、
「民主主義という考えを、理不尽の免罪符」
 として考えるのかも知れない。
 だから、本来であれば、
「自分のために、自分の人生をできるだけ充実させたい」
 と考える人がもっと増えてもいいだろう。
 そうなると、その気持ちが実現してくれば、気持ちに、本当の意味での余裕が生まれてくるかも知れない。
「貧乏人が、気持ちだけではなく、すべてにおいて余裕もないのに、他人のことを思いやれるはずもない」
 さらに、金持ちということであれば、実は余計に、気持ちに余裕がない場合も多いだろう。
 というのは、
「人間の中にある欲というものには、限りがない」
 ということからだ。
「お金というのは、いくらあっても安心できない」
 といってもいい。
「明日の暮らしのために、500円でもあれば」
 と思っている人がいれば、逆に、
「これから、死ぬまで贅沢ができるのは、いくらあればいいんだ?」
 と考えると、そこには、限度というものがないのだ。
 なぜかというと、
「人間はいつ死ぬか分からない」
 ということである、
 確かに人間には、寿命というものがあり、よく生きても、100歳までというと、
「かなりハードルが高い」
 といってもいいだろう。
 だが、それを細かく計算していくと、
「いつ死ぬか分からない」
 と考えただけで、
「その発想が無駄である」
 ということが分かっているだけに、
「いくらあればいいのかが分からない」
 ということで、
「人間にとって一番の不安というのは、分からないということだ」
 といえるのではないだろうか。
 だから、
「一億あっても、不安で仕方がない」
 と思う。
「だったら、二億なのか? いや三億なのか?」
 と考えると、
「考えるだけ無駄だ」
 ということに答えが行きついてしまうのであった。
 実際に、
「いくらあればいいのか?」
 というのは、誰にも分からない。
 それは、
「その人の気構え一つで、逆に言えば、ある分だけで賄える生活をすれば不安というのはなくなる」
 ということである、
 しかし、これはあくまでも、
「不安解消」
 ということで、目の前にあることの不安の一つが取り除けただけだということである。
 しかし、人間というのは生きていると、
「どのような不安が出てくるか分からない」
 といってもいい、
「一つが解決すると、さらに、次の不安が出てくる」
 ということになり、実際に、
「解決できることがあっても、それは、繰り返しているだけ」
 ということにしかならないのだ。
 そうなると、
「人間は、欲などを持ったとしても、不安がある以上、それを解消したとしても、欲を持つことができないように、次々に新たな不安が生まれてくるようになっている」
 と考える、
 しかし、それだと、
「この世に生まれてきた甲斐がない」
 というもので、それが、
「楽しみ」
 というものではないだろうか?
「その楽しみを味わうための原動力として何があるのか?」
 ということを考えると、その先に出てきたものということで、
「それが、欲というものではないか?」
 といえる。
 だから、
「欲」
 というものを、
「表裏あるもの」
 と考えると、
「持ちすぎると、気持ちに余裕がなくなり、永遠に欲を求めて自分を見失う」
 ということになり、逆に、
「欲というものがないと、不安を解消するための、心に余裕のない毎日を過ごす」
 ということで、貧乏な気持ちだけで前に進んでいる自分が、
「イタチごっこを繰り返している」
 ということになるのだろう。
 だから、
「欲という表裏のもの」
 ということと、
「精神的な余裕」
 というものの絡み合いが、実は、
「イタチごっこ」
 というものを繰り返していて、
 結局、
「この世の楽しみ」
 というものと、
「生きていくための余裕のない毎日」
 というものが紙一重であることに気づかされる。
 だから、
「この世を余裕もなく生きる」
 というのは、ある意味、
「一生懸命に生きる」
 ということで、その後にどのような報いが自分にあるかということを信じることで、
「生きていくための余裕」
 であったり、
「人生の楽しみ」
 というものを感じられるようになるということになるのだろう。
 この二人の兄弟は、それぞれに、時々、出会っていた。
 それは夢の中でであるが、それは、不思議な夢だった。
 というのは、
「自分が見ている夢なのだから、目の前に出てくるとは、兄弟の相手のはずである」
 しかし、実際に見えているのは、自分の姿だった。
 だが、それが自分だとは、すぐには分からない。
 なぜなら、
「自分の顔や姿、声というのは、何かの媒体がないと見ることができない」
 ということだからだ。
 だが、目の前にいるのが、自分なんだと感じたその時、
「あっ、これで夢が覚めてしまう」
 と感じるのだった。
 以前から二人とも、
「夢から目が覚める時というのは、これから目が覚める」
 といつも分かっているのだ。
 と思っていた。
 実際に、
作品名:正悪の時系列 作家名:森本晃次