記憶喪失の正体
そもそも、ここを推薦状をもって訪れるというのは、
「少なくとも、政府関係者でしかない」
といってもいいだろう。
だから、
「紹介状を持っていた」
ということは、病院側からすれば、
「これ以上の免罪符はない」
ということだ。
「まるで、水戸黄門の印籠だ」
といってもいいだろう。
紹介状を持っていたことで、怪しまれるということはないが、逆に、
「彼からいろいろなことを聞き出すことは難しいともいえる」
それだけ、秘密を抱えているところからきたわけで、しかも、その病院ですら、
「ほぼほぼ、シークレットな存在」
だからである。
「どっちの機密性が高いのか?」
というと、どっちともいえない。
ただ一つ言えるとすれば、その差がどんなに微妙なものであっても、その距離は、可視化できるかどうかということでも、微妙だといえるだろう。
「近くて遠いその存在は、まるで、宇宙空間のようではないか」
といえるだろう。
「一つ言えることは、沢村という男が、何かに追い詰められているのではないか? ということだと思います」
と、岸田は言った。
「どういうことですか?」
と博士が聞くと、
「自殺をしようとする人は、死んだ方が楽だと思うから死を選ぶんだと思うんですが、だとすると、彼にとって、生きているよりも、死を選ぶ方が楽だと思って、そっちに逃げようとしているんじゃないかと思うんです」
「なるほど、それも一つの考え方ですね」
と博士は、
「賛成も反対もないかのような、曖昧な表現をした」
これが、博士の一つの特徴でもあった。
特に初対面の人には、こちらの考えを見透かされないようにするため、曖昧なことをえてしていうことがあったりする。
ただ、
「博士はこういう人だ」
ということを調べればすぐに分かるようなことを、あえて曖昧にはしない。
なぜなら、
「博士は正直だ」
ということを相手に感じさせることで、曖昧さが、却って相手を惑わすに値するものであると考えるからだ。
それこそ、
「木を隠すには森の中」
といってもいいだろう。
それが、博士なりの、
「心理学の発想」
というものであり、
「研究による知恵だ」
といってもいいのではないだろうか?
特に、博士が相手をする人というのは、
「他でどうしようもない」
と判断されたり、今回のように、
「自殺を繰り返す」
というような、
「切羽詰まった事情を持っている人が多い」
ということで、ただの正攻法では、うまくいかないことが多いということになるだろう。
それを考えると、
「自殺をしようと考える人が、いかに追い詰められるか?」
という原因を考える必要があるのであった。
蘇生
岸田に話を聞いていくうちに、
「どこまで話をしてくれるか?」
ということが問題ではあるが、博士とすれば、岸田が、
「佐々木博士が相手であれば、できるだけのことは話して分かってもらいたい」
とどこまで感じてくれるかどうか?
ということを考えていたのだ。
もちろん、岸田に、最初から、
「沢村という男が自殺を繰り返す原因と、それに対しての対応法が分かっていれば、わざわざ、佐々木教授を訪ねてくる必要などない」
ということだ。
ただ、佐々木博士としては、
「岸田という男は、ある程度までわかっている」
とは思っていた。
ただ、そのある程度というのが、結論までに対して、どれだけの距離があるのか?
ということは分からないだろう。
佐々木博士と、沢村の間に、岸田がいる」
という位置関係において、
「沢村が佐々木博士を見る時、岸田がどの位置にいるか?」
ということと、
「佐々木博士が沢村を見る時、岸田がどの位置にいるか?」
ということは、それぞれの角度の理屈から考えて、
「まったく矛盾している」
と思っている。
これは、
「矛盾というよりも、錯覚」
ということではないか?
と、佐々木博士は考えていた。
そして、
「奇しくも、沢村も同じことを考えているのではないか?」
と考えていた。
それなのに、考え方としてはありえると感じる岸田であるが、それを、
「あくまでも錯覚」
と考えているのが、岸田なのだろう。
つまり、
「岸田という男は、この状況を一番把握してはいるが、分かっていない」
ということだと思っている。
状況を把握できるというのは、
「岸田が、自分が中立である」
ということを把握していて、理解もできているのだが、それだけに、矛盾も感じていることで、錯覚をしているということに対して、真正面から見ることで感じされていると思えるのだった。
しかし、博士とすれば、
「今までの経験と、研究によって、そのことを把握はできているつもりだ」
ということであるが、当事者である
「沢村」
という男は、
「自分が記憶喪失であるがゆえに、見えているものもあるのではないか?」
と感じているようだった。
そのことは、
「岸田も、佐々木博士にも分かっている」
ということであり、
「この三人三様の様子が、ある種の形になっているのではないか?」
と感じるのだった。
この考えは、最近、佐々木博士が、よく考えているということであって、それが、
「三つのものを頂点に考えられる」
というものであった。
その考えの中で、
「一見、似ているように見えるが、実は正反対の発想なのではないか?」
ということで、
「似て非なるもの」
という考え方からか、
「三つ巴」
というものと、
「三すくみ」
というものを考えるのであった。
「三つ巴」
というのは、それぞれ、三つの力が均衡していて、最終的に残った三つが争う時、どのようにして勝敗を決めるか?
ということである。
「巴戦」
と呼ばれるものがあり、
「三つがそれぞれ戦うことになる」
ということで、その勝敗というものを、
「連敗すれば、そこで終わり」
ということになる。
「三人が総当たりで戦うということは二戦するということなので、連勝すれば、負けなしである。
しかし、相手は必ず1敗しているわけだから、その時点で、いくら総当たりが残っていたとしても、
「優勝は決まっている」
ということになるのだ。
それが、
「三つ巴」
というものであり、結果として、
「なかなか連勝ができない」
というほどに、実力が拮抗しているからこそ、
「三つ巴」
というのである。
では、
「三すくみ」
というのはどうであろうか?
これは、一種の、
「抑止力」
といってもいいだろう。
そういう意味では、
「三つ巴」
というのも、一種の抑止力と言える。
それは、
「三つが絡んでも、1対1でも同じだ」
ということであるが、
「三すくみ」
というものの場合は、
「必ず、三つが絡む必要がある」
というものだ。
それだけ、三すくみというものには、
「無限性がある」
といってもいいだろう。
つまりは、三つが絡んでいる間、それぞれ個別には、
「歴然とした力関係が存在する」
ということになる。
この力関係があるからこそ、
「抑止力」
という力になるわけで、