記憶喪失の正体
「それこそが、世の中の力関係の基になるものではないか?」
とも考えられるのだ。
そもそも、
「三すくみ」
というのは、
「三つがそれぞれの距離を保ち、お互いにけん制するということで、欲思慮をを保っている」
といってもいいだろう。
この関係は、
「ヘビ、カエル、ナメクジ」
であったり、
「じゃんけん」
のような関係のことをいう。
つまり、力関係ということであれば、それぞれにおいては、絶対的なものがあるのだ。
「ヘビ、カエル、ナメクジ」
などであれば、
「ヘビはカエルを食べるので、カエルに対して、絶対的な力がある。しかし、そのカエルは、ナメクジを食べるので、ナメクジに対して、絶対的な力がある」
ということになるが、
「ナメクジは、ヘビを溶かしてしまうということで、ナメクジは、ヘビに対して、絶対的な力を持っている」
ということになるのだ。
だから、この三匹を、
「密閉した籠の中に入れるとどうなるか?」
ということであるが、
「それぞれに抑止が働く」
ということになる。
「ヘビがカエルを食べたとすれば、一番得をするのは、ナメクジ」
ということになる。
ナメクジからすれば、自分の天敵であるカエルを消してくれたのだから、あとは残ったヘビを溶かしても、自分は大丈夫だということで、結果は、
「ナメクジの一人勝ち」
ということになる、
つまり、ここで勝敗が決するとすれば、
「必ず、一人勝ちということになる」
といってもいい。
そして、もう一つ言えることとすれば、
「先に動いたものは、生き残れない」
ということになるのだ。
自分が動くということは、
「天敵の天敵をつぶす」
ということになり、
「墓穴を掘る」
ということになるのだ。
だから、
「三すくみ」
というのは、それぞれに抑止力を持っているわけで、結果としても、
「先に動くと、生き残れない」
ということから、
「まったく身動きが取れなくなってしまう」
ということでの抑止力なのであった。
佐々木博士は、心理学的に、この、
「三すくみ」
の関係を、
「科学的に証明しよう」
と考えている。
確かに理屈ではよくできているというもので、その考え方が、間違いのないものとして証明されれば、
「世界平和に貢献できる」
と考えていて、
「いや、そんなことよりも、世の中を救うことができるのではないか?」
と考えていた。
というのが、
「今の人間社会であったり、自然の摂理などというものを考えた時、どうしても、弱肉強食という考えから脱却できないということになると、人類の滅亡は、案外と近いかも知れない」
と思っていた。
自然界における異常気象であったりするものは、
「人間が、自分勝手に、森林伐採であったり、資源利用などということで、
「生態系を壊しているから」
といってもいいだろう。
しかし、
「自然の摂理」
であったり、
「生態系を壊す」
ということ以外にもありえると思っていた。
それが、一つは、
「人間の中にあるストレスやトラウマなとという精神疾患につながるものが、自然界にお影響を与えている」
という考え方、
そして、それ以外に、
「三すくみ」
あるいは、
「三つ巴」
というものをうまく利用できないことからできてきたことだと考えている。
だから、
「三つ巴」
であったり、
「三すくみ」
というものに関しても研究は必須なんだということであった。
そんな中で、
「生態系の問題」
であったり、
「異常気象を招かないようにしるための、
「自然界の摂理」
というものを考えていくと、その中で、
「共通点」
というものがあるような気がしていた。
特に、
「三すくみ」
というものと、
「自然の摂理」
と言われるものがその代表ではないか?
と考えるのだが、それこそが、
「循環」
ということではないだろうか?
三すくみのように、それぞれの力関係が、一周して戻ってくることから、
「無限に消えることのない抑止力を保っている」
といえるだろうし、
「自然界の摂理」
ということでも、
「弱肉強食」
と呼ばれる社会で、
「弱い者は強いものに食われてしまう」
ということになるが、食われたものでも、生き残ったものでも、最後には寿命がくるということになるが、それが、今度は、植物の肥料となり、育った植物を、
「弱者が食することになる」
つまりは、
「こちらも、ずっと循環している」
ということになるわけである。
それぞれに循環するものであるが、
「三すくみ」
というのは、お互いに動けない状態にして、抑止力を保つということで、
「力の均衡によって、守りに入る」
といってもいい。
しかし、
「自然界の摂理」
というのは、動くことを宿命とし、一種の、
「攻撃から生まれた動なるもの」
といってもいいだろう。
それぞれに、循環するものであるが、その目的や、存在意義というのは違っている。
だからこそ、博士は、
「研究材料になるんだ」
と考えていた。
そして、これらから導き出される、
「循環」
という発想であるが、これが人間における、
「輪廻転生ではないか?」
と考えるのであった。
「輪廻転生」
というのは、
「生き物には、必ず寿命というものがあり、その時に行った行動によって、どのように生まれ変わるか?」
あるいは、
「生まれ変わることができないか?」
ということは決まっているというものだ。
「宗教的な発想」
ということであるが、
それが、人間における、
「寿命」
であったり、
「蘇生」
という考え方に結びつくと、博士は感じていた。
ただ、宗教では、
「神様」
という存在があり、
「その神様が人間を作った」
ということで、
「神様以外に、人間の運命を決めることができるものはいない」
という発想である。
ただ、この発想から考えれば、
「神様以外に、人間の運命を決めることができるものがある」
とすれば、
「自分の運命を自分ではどうすることもできない」
ということになり、今までは、
「神様がいるから、自分たちが救われてきた」
という発想が、根底から覆されるということになり、その結果、
「自分たちにはどうすることもできない」
と思うと、それこそ、
「神も仏もないものか」
ということになるだろう。
いわゆる、
「罰当たり」
という発想である。
しかし、実際に、今までの歴史に中で、
「宗教が迫害されてきた」
というものがあからさまに残っている。
なんといっても、今までの人類の戦争の中で、
「宗教が絡んでいる」
というものがどれだけあるか?
ということである。
そもそも、
「人を殺してはいけない」
という戒律があり、
「自殺すら許さない」
といっているくせに、
「宗教を守るというお題目で、堂々と戦争を仕掛ける」
ということもあったわけで、それが、
「宗教戦争」
ということになっているではないか。
しかも、
「キリスト教とイスラム教」
というのは、
「太古の昔」
から、戦争を行っている。
「十字軍しかり」