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記憶喪失の正体

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「コンプライアンスの問題」
 が大きかったりするのだ。

                 自殺

 取り調べなどが、その代表的なもので、
「昔であれば、容疑者の自白が一番強い」
 と言われていて、実際に、拘留機関というのは決まっているので、その期間の間に、
「どんなことがあっても、白状させる」
 ということから、
「拷問に当たらない」
 という程度の暴力というのは、普通にあったといえるだろう。
 しかし、今の時代は、
「容疑者の人権」
 という問題。
「冤罪を作らないようにする」
 という問題などから、
「自白というものの重要性が、低く成ってきた」
 といってもいいだろう。
 特に、警察で自白をすれば、検察官が、それを引き継ぐ形で、
「起訴する」
 ということになるだろう。
 しかし、これを裁判になると、被告が、裁判官から、罪状認否を尋ねられた時、
「警察側の拷問で、仕方なく白状しました」
 ということになれば、その時点で、
「自白」
 というものが、
「一切の証拠能力に値しない」
 ということになる。
 つまり、弁護側の作戦として、
「自白をわざとさせ、裁判に持ち込むことで、供述をひっくり返そう」
 と考えるのだ。
 今では、それが常套手段ということで、通用はしないが、それだけ、今では、
「自白というのは、ただの状況証拠に近いものだ」
 ということで、どうしようもない。
「だから、取り調べにおいて、自白したことの裏を取り、そこから、物的証拠を見つけ出さない限り、起訴しても、公判の維持というものはできない」
 ということになるのだ。
 それを考えると、
「警察というのは、取り調べにおいて、昔のような、脅迫であったり、拷問のようなことは、まったくの逆効果」
 ということになるだろう。
 中には、容疑者として逮捕され、
「わざと警察官を怒らせ、暴力をふるわせることで、自分の有利に導こう」
 と考える輩もいる。
 ということで、今では、
「取り調べ」
 というものにもマニュアルがあり、それに沿った形でのやり方をするようになっていった。
 昔と違うことも結構あり、
「昭和の時代が、どれほど、イン上に訴えたか?」
 というのは、昔の刑事ドラマや、コント番組を見ればわかるというものだ。
 特に、昭和の時代といえば、
「熱血刑事」
 などというのが主人公の時代であった。
 犯人逮捕に執念を燃やす刑事として、だからこそ、
「昭和の捜査と言われる、足で稼ぐ」
 というやり方が、もてはやされたりしたのだ。
 さらには、人情の時代ということもあり、たとえば、
「どこかの銀行に強盗に入った犯人が、人質を取って立てこもったりした場合、その説得に、親を連れてきて、人情に訴える」
 というものがあったりした。
 今では、
「ありえないこと」
 といえるだろう。
 また、昔の刑事ドラマでは、
「落としのヤマさん」
 などと言われる刑事がいて、
「かつ丼でも食うか」
 といって、腹が減った容疑者を、
「かつ丼でつる」
 などというのが、当たり前という時代だった、
 しかし、今ではそんなことはない。
 基本的に、
「拘留の際に、提供される三度の食事以外は、確かお茶の一杯でもいけないのではないだろうか?」
 今でこそ、
「警察署内は禁煙」
 ということになっているのでありえないことであるが、昔のように、自白を促すという意味で、
「煙草を与える」
 というのも許されない。
 それだけ厳しくなっているということで、
「取調室において、人情に訴えるような話は、今では厳禁ということではないだろうか?」
 それだけ時代が変わってきているということで、当時の警察官が、
「今のような取り調べになるとは思ってもいない」
 ということであろうし、今の警察官からすれば、
「話には聞いたことがあるが、昭和の時代の取り調べなど、想像もつかない」
 ということになるだろう。
 それこそ、
「見ると聞くとでは大違い」
 ということで、
「実際に経験したことでなければ、分かるはずがない」
 ということだ。
「今の人間であれば、昔のことを調べて勉強すれば、昔がどういう時代だったのか?」
 ということは分かる。
 と考えるだろう。
 しかし、実際にそうなのだろうか?
 その時代のことは、今であれば、
「映像というものに残っているので、それを見ればわかる」
 と、かつて、その時代に生きていて、過去を知っている人は、
「昔は、ああだった」
 などと、今の人間に言って聞かせようとするだろうが、
 それはあくまでも、
「自分は過去も今も知っている」
 ということで、
「マウントが取れる」
 ということを目的に考えているとすれば、意外と今の人は、そういう魂胆というのは分かっているもののようだ。
 昔だってそうだったではないか。
 老練の大人が、
「今の若い者は」
 といって、時代の変化を憂いている時代を歩んできたことに対して、
「年寄りの冷や水」
 といってきた時代が繰り返されてきたというものだ。
 それを考えると、
「時代において、マウントというものをいかに考えるかというと、実際には、昔にもあったことだ」
 といえるだろう。
 ただ、昔は、
「それが当たり前だった」
 ということでの、
「あきらめの心境」
 というものがあることから、
「精神疾患になる」
 ということはなかったのだろう。
 逆にいえば、昔の人は、
「熱血根性」
 というものを正しいと考えるが、そのわりには、
「諦めが早い」
 というのも、昔の人の特徴だということで、
「それが、今のような、精神疾患というものを生まない」
 といってもいいかも知れない。
 ただ、昔にも、理不尽であったり、無体なことというのはあったということで、それが、
「脳内の神経伝達物質の乱れ」
 ということになるということなのだろう。
 だから、逆にいえば、
「昔の精神病」
 というのは、今に比べて、
「種類は少なかった」
 といえるだろう、
 今の場合の精神疾患というのは、
「かなり細分化され、それぞれに症状というものが分かってきて、それに対する薬の処方であったり、対処法というものも分かってくるようになった」
 といっていいだろう。
 しかし、いまだに、
「精神疾患」
 と呼ばれるもののほとんどは解明されていないといってもいい。
「解明される端から、新しい精神疾患というのが、どんどん生まれてきている」
 というのが現状なのかも知れない。
 それを考えると、
「精神病」
 というものを含む精神疾患は、
「まるで生き物のようではないか?」
 といってもいいかも知れない。
 その時代の学者や医者が、
「そのことをどこまでわかっていたのか?」
 ということは想像できない。
 何しろ、
「過去のことは分かるすべはあっても、未来のことは、まったく分からない」
 といえる。
 未来のことは、あくまでも、事実ではなく、想像なのだ。
 それはどこまで言っても同じことで、
「未来である以上、そのことに変わりはない」
 といえるだろう、
 佐々木博士もそのことは分かっていて、
作品名:記憶喪失の正体 作家名:森本晃次