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記憶喪失の正体

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 であるが、考えてみれば、もとは同じものから出発しているわけだ。
 その宗教というもののために、
「人間が殺しあう」
 というのはどういうことなのだろうか?
 戦ではないが、江戸時代などで、幕府による、
「キリスト教禁止令」
 というもののために、
「踏み絵政策」
 などで、処刑されるという悲劇が起こったわけだが、
「自分を信じてくれている庶民を見殺しにして、何が宗教だ」
 といえるのだろうか?
 確かに、
「この世で救われなかった人を、あの世で救う」
 という教えは実に都合のいいものだ。
 なんといっても、
「あの世というのは、死なないと見ることができない」
 ということだからである。
「死んでから、幸福になれる」
 というのは、実に都合のいい教えである。
 だったら、
「この世で味わっている地獄を早く終わらせて、天国にいければ、幸せだ」
 ということになるのだろうが、
「キリスト教では、自殺は認めていない」
 ということになると、
「この世の地獄は、味遭わなければいけない」
 ということになる。
 それで、
「救われる」
 ということになるのだろうか?
 だから、
「この世では、自分が幸せになれるわけはない」
 ということで、
「戦争を起こすことに、何ら抵抗がない」
 ということなのかも知れない。
「感覚がマヒしている」
 ということになるのだろうか?
 普通に考えると、
「あの世で幸せになるために、この世は犠牲になるというのは、ありえることなのだろうか?」
 ということであり、
「宗教を信じるというのは、どこに徳があるのか?」
 と考えてしまう。
 これも、ひょっとすると、
「この世」
 と
「あの世」
 そして、神様という関係においての、
「三すくみ」
 なのか、あるいは、
「三つ巴」
 なのか?
 ということを考えさせられるというものだ。
 そう考えると、三つの間に挟まれている人間という存在が、
「いかに小さく、まわりのものに操られたり、洗脳されたりして、それこそ、何かの力に操られている」
 と考えられるのだ。
 そんなときに考えることとして、
「蘇生」
 というものであった。
「輪廻転生」
 のように、
「新たに生まれる」
 ということではなく、
「一度終わったと思える人生を、自分の手で取り戻す」
 ということだ。
 そこには、神の力は存在しないという考えで、いや、むしろ、
「神様という存在を最初から抹殺した形で考える」
 ということになるのだった。
「神への冒涜」
 と宗教団体の連中はいうかも知れないが、
「そもそも、神を信じていない」
 ということなのだから、
「発想自体がナンセンス」
 というものだ。
「いや、厳密には、神を信じていないというわけではない」
 信じていないのは、
「人間のためになってくれる神」
 というのがいないという考えである。
 そもそも、人間が神を見る時、
「人間のために存在しているのが、神だ」
 ということで信仰しているのだろうが、信仰することで虐殺される人を見殺しにしたり、その存在を証明できるものがまったくなかったりと、
「人間のためになる神の存在を信じられない」
 という人も多いだろう。
「信じている人」
 というのも、とにかく多いというわけで、
「神様」
 というものが、
「一体どれだけの種類いるのだろうか?」
 とも考えられる。
「オリンポスの神々」
 であったり、
「イスラムの神」
「キリスト教の神」
「お釈迦様」
 などといろいろいるが、それこそ、
「宗教の数だけいる」
 といってもいいだろう。
 それが、
「神と人間の間に立ちはだかるもの」
 であり、それが、
「三すくみ」
「三つ巴」
 を作っているのだろう。
「蘇生」
 というのは、ありえることなのだろうか?

                 よみがえり

 この病院では、先生のレベルとしては、かなり高いものがあった。
 もちろん、佐々木博士は、
「世界的な心理学の権威」
 ということで、そのランクはかなりのものだが、他の教授の中にも、
「引けを取らない」
 という人もいたりする。
 佐々木博士の場合は、他の研究所から、
「引き抜きを受けて」
 ということでやってきた。
 元々は、日本でも有数の研究所にいたので、それなりの権威と、その名声とで、研究所も、博士も、それぞれに得をしていたのだが、こっちに移ると、
「博士の名声で、研究所だけが得をしている」
 と感じている人も多いだろうが、そういうことでもない。
 中には、
「引き抜いてもいないのに、自分から入ってきて、ここでその実力を発揮する人もいたのだ」
 そこに、
「佐々木博士の力が及んでいる」
 ということを分かっている人は、意外と少ないかも知れない。
 佐々木博士が、最終的に研究しているのは、
「蘇生」
 という考え方であった。
 これは、
「寿命というものを伸ばす」
 という考え方に直結しているので、宗教的に考えれば、
「許されないこと」
 といってもいいだろう。
 実際に、行っていることとしては、
「法律的には許されないこと」
 ということで、一つは、
「植物人間化してしまった人を、一度殺してしまい、そこから蘇生させる」
 という発想であった。
 もちろん、家族の承認は受けている。
「このままにしておいても、蘇生の可能性はない」
 ということなのに、
「安楽死は許されない」
 という理不尽な法律を考えれば、
「もし、このまま蘇生できなかったとしても、それは、その人の運命なんだ」
 ということだと納得できるからだ、
 逆に、
「生命維持装置」
 などという機械に頼らなければ生きられないということであれば、
「生きているといえるのだろうか?」
 ということになるのだ。
 自分も生きていかなければいけないところで、死ぬこともできない人が、
「生命維持装置」
 なるものでいかされている。
 それには金がかかるわけで、それを負担するのは、家族である。
 誰も助けてあげることもできないのに、家族に、二重の苦しみを与えて、それで、生き延びたといえるのだろうか?
 それこそ、
「死ぬこともできない」
 という、
「前にも後ろにも進めない」
 ということだ。
 宗教が、
「死んだ後に極楽に行ける」
 ということをいうのであれば、
「早く死なせてあげる」
 ということをさせられないということの矛盾を証明しているようなものではないだろうか?
 それを考えると、
「蘇生させる」
 という考え方も、人間の役に立つためだと考えればありではないか?」
 ということであった。
「この蘇生」
 ということがどういうことで人間の役に立つのか?
 ということが、まだ正直分かっていない。
 もし、これが分かるのだということになれば、
 その発想が、
「今世の中にある難病を救う」
 ということにつながるのではないか?
 と考えるのであった。
「難病を救う」
 という発想は、どこの研究所でも行われていることであった。
 そもそも、難病と呼ばれるものは、
「そのメカニズムが分かっていないものがほとんどである」
 というのも、
作品名:記憶喪失の正体 作家名:森本晃次