症候群と秘密結社
「人を洗脳する」
といってもいい。
大日本帝国時代というのは、
「天皇のために死ぬのが正義」
と言われていたが、それは、
「自分の命を犠牲にしてでも」
ということである。
今の時代であれば、
「優先順位は、自分の命が一番だ」
と言われるが、それは、今そういう教育を受けているからで、大日本帝国の時代は、
「天皇陛下が国家元首で。一番優先されるべき相手だ」
ということであった。
なんといっても、
「天皇は人間ではなく、神様だ」
ということだからであり、それこそ、宗教の考え方だったのだ。
伝説の村
この街は、戦後もしばらくの間、
「天皇は神様だ」
ということを信じている人が多かった。
「日本は民主国家に生まれ変わった」
といっても、
「天皇が、人間宣言をした」
といっても、そもそも、受けてきた教育を、
「正しい」
ということで決めつけられて育ってきたのだから、実際にそれを覆すということは、かなり難しいことであった。
それが、南方の島で、
「取り残された兵士」
ということで、一人何とかして生き延びた、
「旧日本兵」
ということであれば、それこそ、取り残された瞬間から、
「時間が止まってしまった」
ということになるのだから、
「それも無理もない」
ということになるだろう。
しかし、少なくとも日本国の中で、政府よりも上に、
「占領軍」
というものがあり、統治政府が君臨している以上、
「何を言っても、日本という国は、新しい国に生まれ変わるしかない」
ということであった。
だが、そんな中において、ここは、一番遅くまで、
「大日本帝国だった」
といってもいい土地で、その理由は、
「その土地に住む民族性」
というものが影響していた。
そもそも、その土地は、元々他の土地に住んでいた人が移り住んで、集落を作ったところだったのだ。
だから、先祖は、
「落ち武者だった」
といってもいいだろう。
「下剋上」
と呼ばれた、クーデターが横行し、
「群雄割拠」
と呼ばれた戦国時代、隣国から攻められるなど当たり前のことで、いきなり、急襲されたことによって、土地を追われ、そこからさらに逃げて、山奥の土地に、何とか住み着くことができた。
そこから、何とかその土地を死守してきて、
「逃げ延びた土地」
が、いつの間にか、
「定住の地」
ということになったのだ。
だから、彼らの子孫でも、そのことを知っている人はそれほどいるわけではなく、
「民族が始まった時から、この土地に安住していた」
と思い込んでいたのだ。
もっとも、そう思っている方が、この土地に対しての思い入れも大きいので、
「何があろうとも、土地を捨てない」
という気概を持つことができるというものであった。
実際に、彼らの子孫が、この土地を、
「安住の地」
として考えていた。
確かに、江戸時代などは、領主の搾取に悩まされ、他の土地のように、
「年貢の取り立て」
というものの激しさや、天変地異などによって巻き起こった、
「飢饉」
などというものに苦しみながらも、
「俺たちの土地」
ということで、何とか、歯を食いしばって生きてきた。
もちろん、飢饉などでは、
「命を落とす者も多く、一揆寸前までいった」
ということがあったが、その時、
「捨てる神あれば拾う神あり」
ということで、実際には、代官が領民から、収める年貢をピンハネしていたということであった。
それは、もちろん、領主を欺いての、代官と地元の商人とが結託しての悪だくみだったのだが、
「なんとそこに、救世主が現れ、それら悪代官たちを成敗してくれた」
という伝説が残っているのであった。
それ以降、領民を苦しめる代官は出てこなかったが、その代わり、
「飢饉」
であったり、
「天変地異」
という、自然の猛威を防ぐことはできず、苦しんだ時期はあったが、村人は、かつての、
「救世主の存在」
というものを信じて、
「いずれは、我々を助けてくれる」
ということで、何とか助かる道を模索していたのであった。
そんな時、彼らが考えたことは、
「俺たちは、絶対にこの村にしがみつく」
ということであった。
ただ、それは、
「伝説にしがみつく」
ということよりも、もっと考えはしたたかだったのかも知れないのだが、それは、
「ここで苦しいのであれば、どこに行っても同じだ」
ということであった。
例えば、
「土地を捨てて、江戸に出れば、職もあるだろう」
という考えもあるが、
「そもそもの人口が多いところで、誰もが同じことを考えるので、どんどん人は江戸に集まってくるだろうから、自分たちがありつけるものはない」
と考えていた。
「それくらいなら、この土地で頑張っていけば、もし、悪代官が出てきたとしても、かつての救世主が助けてくれた実績があるこの土地は、大丈夫なんだ」
と考えるのであった。
だから、
「時代時代に沿った苦悩もあったが、今まで頑張ってきてよかった」
と村人は感じていた。
なんといっても、彼らの考え方は、ある意味柔軟だった。
「そもそもは、俺たちは他の村の連中とは違って、この土地を信じている」
という思いがあることで、国家の行く末までは考えないが、
「長いものには巻かれる」
という形をとるとしても、それは、
「自分たちが自立を進めるため」
ということだったのだ。
だから、戦後も他の村では、
「新政府が推し進める民主化に対して、仕方がないということで、いやいや従っていた」
しかし、この村では、
「嫌々従うくらいなら、自分たちの意見が固まるまで、今までの考え方を捨てることはしない」
と考えていたのだ。
一見、
「長いものに巻かれているわけではない」
と思われるかも知れないが、その根底に、
「自分たちは他の村とは違う」
という思いがあるからだった。
「どうしてそこまで、自分たち独自ということを考えるのか?」
ということであるが、それは、きっとこの村の成立が、
「他から流れてきた人たちが、自分たちで開拓した村だ」
ということであろう。
実際には、農作物がまともに育つところかどうかも分からなかった。
しかも、住む家も最初はなく、縄文時代のように、穴倉の中で、狩猟をして暮らしていた。
という時代があった。
それは、
「落ち伸びてきた民族だから、それも仕方がない」
ということだったのだろうが、それでも、土地を開拓し、ここに腰を下ろすことができたのは、
「ここを自分たちのものとして、子孫にしっかり受け継がせよう」
という気持ちが強かった。
つまりは、彼らの中に強くあったのは、
「開拓者精神」
つまり、
「フロンティアスピリット」
というものであろう。
自分たちの民族というものが、
「本当にここまで根強いてくれる」
と思っていたかどうかわからないが、
「他に染まりたくない」
という心だけは、遺伝という形で、ずっと受け継がれているようなのであった。
そんな村が、今では町になった。
昭和から平成、そして令和へと時代が進んできて、その途中で、