症候群と秘密結社
ということで、市民が、
「困っていることに対して、真摯に向き合う必要がある」
ということであるが、
「警察がいちいち、個人のことに関わっていれば、人も金もいくらあっても賄えない」
ということになるだろう。
だから、
「少数は切り捨てて、公共の秩序を守る」
ということを一番とするということになるのだ。
だが、実際に目の前で困っている市民を見捨てて、
「警察がいうところの大義」
つまりは、
「警察の威信を守る」
ということが一番大切だということを言っている限りでは、
「しょせんは、市民の信頼という形での、警察の威信というのは、できるわけがない」
ということである。
今の警察は、(いや、昔からであるが)
「強権において、国家権力をかさに着ることで、警察の威信というものを守っていることになる」
というわけである。
もちろん、すべての警察官が、
「皆警察の威信とメンツのためだけに働いている」
というわけではない。
しかし、そういう考えを持っている人は、
「早々に潰される」
というのが、警察組織というもので、
そんなときに、
「人事権」
であったりを使い、
「左遷」
ということが行われるのだ。
それこそ、
「警察が一番、ブラックなのかも知れない」
といえるのではないだろうか?
「警察が何かが起こらないと行動しない」
ということで一番わかりやすいこととして、
「捜索願」
というものの対応に対して画、一番わかりやすいのではないだろうか。
「うちの奥さんが、数日家に帰ってこない」
ということで、旦那が捜索願を出したとする。
提出することは別に構わないし、警察も受理してくれるかも知れない。
しかし、実際に、
「事件性が感じられない」
ということになれば、警察が捜索することはない。
事件性というと、
「何かの犯罪に巻き込まれた」
あるいは、
「自殺をする可能性が高い」
などということであれば、さすがに動くだろう。
ただ、それも、漠然とした、
「状況証拠」
くらいでは動かない。
たとえば、
「どこかで交通事故が起こり、その場所から、被害者が消えているということになると、残った血液から、鑑定を行い、その情報から被害者を探すと、行方不明者と合致した場合」
などが当てはまる。
しかも、ここまで来て、やっと捜査をするということで、
「たまたま、捜索願と、ひき逃げ事故が重なった」
というだけのことではないか。
偶然が、
「二つの事件を解決に導く」
ということになるかも知れないのだ。
また、何かも起こっておらず、事件性が薄いかも知れない」
という場合でも、行方不明になった人が、
「警察幹部の家族」
だということになれば、警察は、
「何をおいても、捜査をする」
ということになるだろう。
しかも、
「オフレコ」
ということになるだろう。
やはり、
「警察幹部の家族だからということでひいきしていると思われるのも、警察としては立場が悪いことになる」
ということだからだろう。
ただ、
「この行方不明というのが、何かの事件の前兆として、脅迫するために、誘拐ということであれば、大きな問題ということになり、警察幹部を脅すということで、犯人の要求が、とてつもない想定外のテロであったり、クーデターであったり」
などということも考えられないわけではないので、そうなると、
「後手に回るわけにはいかない」
ともいえる。
だったら、
「他の捜索も、ひいきすることなく、同じように扱えよ」
ということになるのだろうが、
「他の人すべてに同じことをすると、
「人や金がいくらあっても足りない」
ということになる。
しかも、
「警察というのは、公務員の集まりであり、その組織は、税金によって賄われている」
ということから、
「税金の無駄遣いはできない」
という形でいうことができるのだ。
要するに、
「こんな時だけ、公務員というのをひけらかす」
ということで、
「捜査においての、特権として、公務執行妨害」
などを使う場合など、警察は、
「他の公務員と違い、特殊な組織だ」
といっていいだろう。
もちろん、一人一人の警察官が、
「国家権力の犬だ」
ということではない。
だから、公務員というものの中で、
「一番危険と隣り合わせだ」
といってもいいわけで、現場の警察官に対して、ほとんどの国民が敬意を表し、リスペクトしていることだろう。
しかし、そんな中で、ちょっとでも理不尽なところが見えれば、
「しょせん警察官も他の公務員と変わりない」
ということになり、
「昨日の友が今日の敵」
ということになるに違いない。
失踪届ということではないが、この日、病院に運ばれた人の身元を、警察が調べなければいけなくなったというのは、当然のことであった。
その人は、交通事故に遭って、病院に運ばれてきた。
犯人はひき逃げで、
「ひき逃げ事件」
ということで捜査本部が設立され、それに伴って、
「いろいろと目撃者の捜索が行われたり」
あるいは、
「同時に被害者の身元を探す」
という必要があった。
被害者は、事故にあって、
「瀕死の重傷」
ということで病院に運ばれ、緊急手術を受けた。
前述の、
「サイレンとパトランプ」
というのは、この時の事故によるものだったのだ。
その日の手術は、嵐の中で行われ、結構長い時間かかったのだった。
そもそも、この辺りは、事故多発と言われていることもあり、医者も看護婦も、言い方は悪いが、
「慣れている」
といってもいいだろう。
もちろん、
「死亡事故」
というのも多発していて、中には、
「その場での即死」
であったり、
「搬送中に死亡が確認される」
ということであったり、
「運び込まれた時は、内臓破裂で、手の施しようがない」
ということであったが、
「それでも、一縷の望みをかけて、手術をする」
という医者もいた。
ほとんどは、
「手の施しようがない」
ということで、その時点で、
「死を宣告する」
という医者もいるだろう。
「せめて、息のある間に、家族に一目会わせてあげたい」
という考えから、
「駆けつけてくる家族に死目を見せさせてあげるためだけに、治療をする」
という人もいる。
この対応は間違っていないだろう。確かに、
「助かる望みが、万に一つしかない」
ということであれば、
「せめて、死に目に合わせる」
ということを考える方が、はるかにましだといってもいいのではないだろうか?
それを考えると、
「医者の判断としては、適切ではないか?」
と考えられる。
正義感に燃えて、
「助けられる可能性が万に一つもあれば、全力を尽くす」
というのも、間違いではないだろうが、
「それが、果たして患者や、その家族が望んでいることなのか?」
ということを考えると、
「何が正義なのか?」
ということになり、
「たとえ正義なのかも知れないが、正しいことが、本当に人のためになることよりも、優先されていいのだろうか?」
ということであった。
「正義が一番優先される」
という考えは、一歩間違えれば、