症候群と秘密結社
どこまでが実際にあることなのか、警察であっても、どこまで把握しているか、正直分からない。
警察も、
「機密の漏洩」
ということには、目を目を光らせていることだろう。
なんといっても、
「個人情報を取り締まる立場の警察から、個人情報が漏洩した」
などというのは、
「これこそ、警察の権威が失墜する」
といってもいいだろう。
だから、これは、ウワサに聞いた話であるが、
「個人情報を、人間の頭に格納するようなチップが埋め込まれている人が一部いる」
と言われるようになった。
実際に、警察の中で、そういうウワサが流れたことがあった。
しかし、すぐに上から、
「そんな根も葉もないうわさをするんじゃない」
と言われ、
「厳重にかん口令がしかれる」
ということになった。
「そんな陰謀論のようなものを信じるんじゃない」
と言われたものだった。
これは、逆に、抑える方としては、
「一種の追い風」
だった。
以前から、
「陰謀論」
なるものは結構あったりしたが、
「ウワサが出ては、いつの間にか消える」
ということでなかなか定着しなかった。
それも、当たり前のことで、
「実際にそのような、
「陰謀論」
というのは、明らかに存在し。それが噂になってしまうと、実際に困るという人はいたのだ。
しかし、これをあからさまに抑えると、国民が、
「陰謀論に対して信憑性を感じるようになる」
ということで、
「あまり広まってしまうとまずい」
ということから、警察上層総部であったり、国家公安が気を付けていた。
だから、
「ウワサが経つ前に、手を打つ」
ということで、
「噂を起こすところの内偵を専門に行う部署を設立していた」
というのも、
「陰謀論というのは、ただのウワサではなく、そのウワサ事態に効力があるわけではなく、あくまでも、ウワサによって、世の中を混乱させる」
ということが必須ということになったのだ。
だから、
「あくまでも、ウワサが立つ」
というのは、絶妙なタイミングというものがあり、
そのタイミングを逃さず、
「悪の組織は暗躍する」
ということを、警察や公安で発見したのだ。
だから、
「相手の動きがこっちにも分かる」
ということで、
「ウワサの元を一気に潰してきた」
ということだ。
組織の方は、
「陰謀論」
というものを、
「ウワサという形で流すことで、より陰謀論を信憑性のあるものとして、世の中を混乱させようと考えていた」
しかし、警察は逆に、
「これは陰謀論だ」
と逆手に取れば、
「組織の暗躍をつぶすことができ、組織の存在を、暗に国民にほのめかすことができる」
ということだ。
しかし、それをあからさまにしてしまうと、却って国内に混乱を巻き起こすということで、
「どこまですればいいのか?」
というタイミングが難しい。
だから、警察の問題を混乱させないように、公安と警察がタッグを組み、
「陰謀論の撲滅」
というものに勤めていた。
ちょうど、この女を発見したのが、
「警察の内偵」
というものを、
「時同じくして」
ということであった。
警察とすれば、
「やつらが動くということまでは分かったが、どのようにするか?」
ということまでは、想像がついていなかった。
「どのあたりで?」
という想像はついていたので、ヤマを貼っていると、ちょうど、怪しい女が出てきた。
内偵の中での優先順位として、かなり高いところに、
「記憶操作」
というものがあった。
そんな時に、突然出てきた、
「記憶喪失の女」
ということで、内偵者とすれば、
「飛んで火にいる夏の虫」
と感じたようだ。
相手も、
「警察の様子には目を光らせていたが、まさか、公安とタッグを組んで、ここまでやっているとは思ってもいなかっただろう」
そもそも、
「内偵チーム」
というのは、警察内に作られた。
本来であれば、
「公安であるべきなのに、警察内部に作られた」
ということは、
「敵の目をくらます」
ということであり、それがうまくいっているということは、
「組織は、国家を甘く見ている」
ということであろう。
そもそも、
「世界的なパンデミック」
というものを抑えることができず、お粗末だった政府の下部組織なのだから、
「結構組織から甘く見られても仕方がない」
ということだろう。
そういう意味では、
「能無しの政府というのも、役に立つこともあるんだな」
ということで、
「鼻で笑ってもいいレベル」
といってもいいだろう。
そんな政府を、
「警察はバカにしていて、
警察や公安も、
「そんな政府をあてになどしていない」
ということで、このアンバランスな考えが、実は功を奏していて、
「相手組織の常識を、ことごとく覆してきた」
といってもいいだろう。
これが今の、
「日本という国家」
であり、
「うまく操縦できる人がいれば、これほどうまく機能する国家もない」
といってもいいだろう。
カプグラ症候群
心理学的な現象や言葉には、
「数百年前」
いや、
「太古の昔」
から言われていることがあったりする。本当の昔には、
「ドッペルゲンガー」
などと呼ばれるものがあり、それは、
「もう一人の自分」
というのが、
「同一次元の同一時間に存在する」
というものであった。
確かに、世の中には、
「自分と似た人間が、三人はいる」
と言われているが、それはあくまで、
「自分と似た人」
というだけで、
「本当の自分ではない」
というものだ。
理屈で考えれば、
「同一次元の同一時間に同じ人間がいる」
というのはありえないことだが、それを信用させたこととしての曰くとして、
「ドッペルゲンガーを見ると、その人は、近い将来に死んでしまう」
ということであった。
しかも、それが、昔から、
「見た」
という伝承が残っているということから言われることで、しかも、その見たという人は、
「有名人であったり、著名人」
というのだから、それも信憑性のあるというものだ。
「たくさんいる中の偶然だ」
ということをいうのであれば、
「そもそも、それだけたくさんの証言があるということの方が、ますます、その信憑性というものを高める」
というものだ。
だから、
「どちらの考えであっても、信憑性は高い」
ということになる。
そもそも、このような
「謂れ」
であったり、
「都市伝説」
なるものは、
「裏をとっても表をとっても、同じ理屈で信憑性というものがあることから、謂れありをして考えられる」
ということになるのだ。
しかも、それらの話一つ一つにも、
「表裏」
というものがあり、それが、ぴったりと辻褄を合わせてくれるのであるから、
「太古の昔」
より信じられてきたことだというのだ。
普通に考えれば、
「同じ人間が、同じ時間、同じ次元にいるわけはない」
といって、一蹴されて終わりといえるのだが、それを一章の元にたたき伏せることができず、