覚悟という錯誤
「どうせ、帰っても俺一人なんだ」
ということで、実際に、
「この遊びは休日の前の日」
ということにしていた。
坂上の会社は、休みは週休二日制ではあるが、実際には決まっていない。
会社自体は、
「日曜日は休み」
ということになっているが、それ以外は、シフト制だったのだ。
「土日を休みにして、連休にしたい」
と思っている人が多いことで、逆に、
「平日の休みがほしい」
と考えている坂上にとって、却ってまわりの人とバッティングしないことで、シフトに関しては喜ばれたのだ。
だから、普段の金曜日の夜の、あの喧騒とした雰囲気を味わわなければいけないわけではないのがありがたかった。
どちらかというと、
「俺は天邪鬼だ」
と思っている坂上としては、それがありがたかったのだ。
金曜日の夜というと、人がやたら繁華街に繰り出して、
「ただ、うるさいだけ」
ということで、さらには、
「10人近い団体」
しかも、
「若い連中」
というのが、集団で歩いていると、そのほとんどは、他の通行人を意識していないのか、後ろ向きに歩いたりして、よく人にぶつかっているのを見る。
口では、
「ああ、すみません」
と謝ってはいるが、その姿は、まるで、下から見上げているその目が、まるで、相手を馬鹿にしているように見えて、
「不愉快極まりない」
という様子で、
「こっちまで気分が悪くなる」
というものだった。
しかも、車道にはみ出して歩くので、車がクラクションを鳴らす。
喧騒とした雰囲気の中で、クラクションが鳴っただけで、ほとんどの人の気分は悪いだろうと思うと、
「たまったものではない」
と感じさせられる。
それだけでも、
「人の多い繁華街は嫌いだ」
ということになるのだ。
坂上は、いつでも急いで歩くというくせがついていた。
その原因は、昔からのことなのだが、
「喧騒とした雰囲気から、一刻も早く立ち去りたい」
ということが
「頭の中にあったのだろう」
ということを、最近気づいたのだ。
最近といっても漠然としているが、それが、
「繁華街を歩くようになって」
という、ここ数年のことであるということまでは、意識できるようになった。
そのおかげで、
「何かを意識するときは、実際に、もっと昔から感じていたことだ」
というように思っていると感じるようになった。
ただ、その意識の根底にあるのは、
「人と同じことをするのが嫌だ」
という感覚からではないか?
実際に、子供の頃から、
「天邪鬼だ」
とは思っていたが、それと、
「人と同じことをするのが嫌だ」
という感覚とは違うものだと思っていた。
それは、
「人と同じが嫌というのが、自分にとって悪いことではない」
と思っていたからだ。
しかし、最近では、その二つが結びつくという感覚になってきたのは、
「天邪鬼だ」
と感じることが、
「自分にとって悪いことではない」
と感じるようになったからではないだろうか。
それを思えば、
「歩くスピードが速い」
ということも、
「金曜日に繁華街に繰り出したくない」
と思うようになったのも、決して悪いことではなく、
「公園の灯台にたたずんでいる時の気持ち」
と変わらないように思うからだったのだ。
実際に公園にたたずんでいると、その日も塩枷を感じていて、さすがにこの時間は、他には誰もいないのが分かっているからか、安心して、川を見ていた。
すると、少ししてから、横の方で、何かが呻いた気がした。
その声が女性であることが分かると、少しびっくりして、そちらを見ると、公衆トイレの方で、大きな影が見えたのだ。
どうしても、公園の街灯というと、それは暗いものである。数メートルおきに街灯はついているが、それが却って、角度によってそれぞれの方向からの強さが変わるので、伸びている影が、うごめいているように感じさせるのだ、
だから、
「大きく見せる」
という感覚であったり、
「回り込んでいる」
というように見せるのであった。
そんな影を見ていると、男であっても、実に不気味なものと思うのだ。
しかも、この辺りは、昔の遊郭があったということで、余計なことを想像させてしまう。
というのは、よく時代劇などで見るものとして、
「借金のかたで売られてきた女が、世をはかなんで、首を吊る」
などということが、行われていた場所が、
「この昔、遊郭だったところだ」
と思うと、いやでも怖さが頭をよぎるというものである。
もちろん、
「今のソープ街というのは、繁華街の一角にあり、賑やかなところなので、そこまで怖いものが出る」
ということを、ウワサとしても聞いたことがなかったので、一瞬ビックリはしたが、あくまでも、一瞬のことであって、それ以上の気持ちはなかった。
だから、その日も、
「一瞬、後ずさりをする気分であったが、すぐに気を取り直して、逆にそのうめき声が女性だということだったことで、興味の方が強かった」
といってもいいだろう。
「興味というよりも好奇心だな」
と思ったのは、
「興味」
という言葉には、どこか、いやらしさのようなものを感じたからだ。
これは、どっちがどっちということはない、その人それぞれで、ものに対しての考え方が違うのと同じで、
「好奇心旺盛」
という方が、自分にふさわしいと思ったことで、考え直しただけのことだった。
人によっては、
「どっちでも関係ない」
という人もいるだろうが、なぜか、そういうところには、坂上は意識を強めるというところがあったのだ。
坂上という男は、
「子供の頃は、好奇心という言葉が嫌いだった」
と思っている。
子供の頃に、よくけがをしていたのだが、それは、
「親や大人が、行ってはいけないというところに行く」
ということが多かったからだ。
それを、
「好奇心が旺盛だから」
といって、まわりの大人には、笑いながらいうくせに、坂上には、
「お前は本当に天邪鬼だ」
という言い方をして、詰っていた。
だから、
「俺は天邪鬼なんだ」
という思いにさせられてしまい、さらにそれを、言い訳のように、
「好奇心」
という言葉でごまかしているところから、
「好奇心が旺盛だというのは、いけないことなんだ」
と、怒られるだけのことをしたということでの、折檻の代償が、
「その言葉を嫌いになること」
ということだったのだ。
好奇心旺盛というのが、
「決して悪いことではない」
と思うようになったのは、中学に入ってから、
「思春期になってから」
のことだった。
しかし、自分の中では、どうしても、
「好奇心」
という言葉を許すことはできなかった。
「そんなのは詭弁だ」
ということで反発し、だか逆に、子供をののしるために使っていた、
「天邪鬼」
という言葉こそ、
「自分にふさわしい」
と思うようになったのであった。
それを考えると、
「そもそも、天邪鬼というのは、自分に都合のいい考え方を、まわりに悟らせないようにしようという意思が働いてのことではないか?」
と思えるのだ。
そして、それはあくまでも、
「自分を納得させるためだ」