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裏の裏

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 ということであるが、普通に考えれば、それだけで、
「信じられないような施し」
 ということになるだろうか?」
 食事だって
「いくらでも食べれる」
 ということではない。
「空腹だからといって、どんどん食べていけば、いずれ腹が膨れて、苦しいくらいになるというのは当たり前」
 ということだ。
 しかも、
「タイやヒラメの踊り」
 というのが、どれほどすごいもおか分からないが、
「じっとして見ているだけだろうから、人間として耐えられるか?」
 ということである。
 しかも、
「眠った時間については一切書かれていない。眠くならなかったということなのだろうか?」
 ということであるが。
「だからこそ、数百年経っていることに気づかなかった」
 といえるかも知れない。
 実際に竜宮城での滞在時間というのは、
「数日間」
 ということであるが、
「厳密にははっきりと言われているわけではない」
 それを考えると、
「浦島太郎という話は、突っ込みどころが満載だ」
 といえるのではないだろうか?
 そもそも、この浦島太郎という話は、
「最後が曖昧だ」
 ということから始まっている。
 元々の話は、諸説あるが、続きがあるというのだ。
 ということで、実際に
「俗説と言われている話としては、本来はハッピーエンドだ」
 というのだ。
 というのも、
「カメを助けたことで、本当はハッピーエンドになるはずなのに、ラストは、実際には、おじいさんになるということで、いかにも戒めということではないか?」
 なぜ、このような話になったのかというと、
「カメを助けた」
 といっても、竜宮城に行って、家族のことを忘れ、まるでハーレム気分になったていたということがまず、戒めに値するというものだ。
 そしてもう一つは、
「開けてはいけない」
 と言われた玉手箱を開けてしまったということが、大きな戒めということであろう。
 この、
「開けてはいけない」
 あるいは、
「見てはいけない」
 と言われるものは、
「見るなのタブー」
 と言われ、それ自体が戒めになっている。それこそ、
「鶴の恩返し」
 などが、いい例ではないか、
 だから、
「浦島太郎」
 という話は、
「戒めの話にしないといけない」
 ということで、教育方針としての教科書ができた時、明治政府の中で、
「戒めの話にするために、おじいさんになった」
 というところで、
「わざと終わらせている」
 ということだというのが、通説だ。
 実際の話としては、
「浦島太郎」
 に恋してしまった乙姫様が、カメになって陸上に上がり、浦島太郎はおじいさんになった後、鶴になり、
「二人はその後、永遠に幸せに暮した」
 ということであった。
 しかし、これもおかしな話で、こちらも突っ込みどころは満載である。
 たとえば、
「浦島太郎と乙姫が愛していた」
 というのであれば、
「なぜ、玉手箱を渡す必要があったのか?」
 ということである。
 もちろん、
「玉手箱がなければ、鶴にはなれない」
 ということであったり、
「そもそも、玉手箱でおじいさんになったのではなく、最初から鶴になる」
 というのが、元々の話ではなかったのか?
 それを考えると、どうも曖昧だ。
 さらに、もう一つ気になるのは、
「鶴は千年、亀は万年」
 ということで、

「長寿の象徴」
 ということをオチにしたのであろうが、
「そもそも、いくら長寿とはいえ、寿命がまったく違うではないか、なんといっても、
千年と万年ではまったく違う」
 ということになるのだが、これもこじつけて考えるなら、
「乙姫様は、そもそも、九千年生きていて、あと千年しか寿命がなかったので、乙姫様は元々カメだった」
 という考え方である。
「二人の残りの寿命が違っている」
 というう理屈でなければ、
「それぞれ同じ動物になればいいわけで、そうでないということの辻褄が合わない」
 ということになる。
 そういう意味で、
「浦島太郎」
 に限らず。おとぎ話というのは、
「それぞれに、矛盾」
 というものがあり、
「曖昧なものではないか?」
 といえるのではないだろうか?
 それを考えると、
「そもそもが、人間であるなら、人間の寿命がちょうどよくできている」
 ということで、それは、どの道仏にも言えることではないだろうか?
「例えば、さなぎから成虫になってからの寿命が、長くても一か月」
 と言われるセミであれば、
「一か月しか生きられないのでかわいそう」
 と普通は思うだろう。
 また、
「浦島太郎」
 にも出てきた、
「長寿の象徴」
 ということである、
「鶴やカメ」
 というものも、人間から見れば、
「そんなに生きてどうなるんだ?」
 と思うだろう。
 そのくせ、西遊記に出てくる妖怪や化け物は、
「坊主の肉を食らえば、不老不死が得られる」
 ということで、
「不老不死に憧れる」
 しかし、これは
「浦島太郎の戒め」
 というものにあるように、
「不老不死を得たとしても、それは自分だけのことで。大切な人がどんどん死んでいく中で、自分だけが死ぬこともできず、自分の子供や孫、さらには、子孫が死んでいくのを見なければならない」
 というのは、どんな気分なのだろう。
 以前、読んだミステリーで、
「復讐に一生をかけている」
 ということで、復讐計画を、残酷に考え、実行した人がいた。
 その方法というのはすさまじく、
「棺桶に生きたまま埋葬し、空気穴だけをあけておく」
 というものであった。
「死しか見えない絶望の中で、どんどん苦しみながら死んでいく」
 というのは、これほど怖いことはない。
「一思いに殺してくれ」
 と思って無理もないことだ。
 だが、その時の犯人は、本当の仇には、さらなる地獄を用意していた。
 それは、地下室に、しばりつけておいて、そこに水を流し込むというものだが、そこのは、
「復讐相手である本人」
 と、
「その人が一番かわいがっている娘を一緒に括り付けている」
 ということなのだ。
「二人一緒に、あの世に送ってやろう」
 ということだ。
 しかし実際には、そんなことで済むわけはなかった。
 というのは、犯人の計画として、
「娘は、復讐相手よりも、かなり低いところに括り付けられている」
 ということであった。
 つまり、
「愛する娘が、苦しみながら死んでいくのを見せつけられ、さらに、そこからまもなく、自分も同じ運命になる」
 ということを思い知らされるということだ。
 それが、
「犯人にとって」
 そして、
「被害者側にとって」
 いかに、
「天国と地獄」
 というものを、見せつけられるということだ。
 そもそも、復讐の相手は、
「復讐を受けても仕方がない」
 ということになるかも知れないが、その家族は、まったく関係がない。
 それこそ、
「親の因果が子に報い」
 というのは、まさにこのこと。
「たまったものではない」
 ということだろう。
 ただ、これも、復讐が行うまでは、立場的には、
「復讐を行う方」
 に対して、世間は同情的だということであり、
「復讐を受ける」
 という方が、
「悪党」
 というレッテルを貼られるに違いない。
作品名:裏の裏 作家名:森本晃次