裏の裏
今回も、見た目はポーカーフェイスだが、見ているかぎり、
「うちに秘めている感情が見え隠れしているか」
のようで、上司も、少し秋元刑事を気にしているようだった。
「勝手に暴走するような男ではないが、普段から、何を考えているか分からないところがあるので、こういう時は、目を離せない」
と思うのだった。
それでも、失踪から三か月が経ってくると、さすがに、清水刑事の失踪ばかりにかかってはいられない。いろいろな事件は、毎日のように発生しているので、刑事課はそれなりに忙しいのだった。
ただ、少なくとも、
「何かの事件にまきこまれた」
という意識が刑事課の中で強くなってきているからか、誰もが、緊張感をもって捜査に当たっているのであった、
清水刑事という人は、今年で35歳になっていたのだが、彼は、一つの事件を気にしているということを知っている人は、ごく一部だった。
秋元刑事もその一人で、だから、
「清水刑事は、何かの事件にまきこまれた可能性が高い」
ということで、捜索をしているのであった。
何も知らない刑事たちは、
「何もそんなに必死にならなくても」
と、思っていた、
さすがに、失踪から三か月が経ってしまうと、事件に関しての感覚には、温度差のようなものが現れてきた。
ただ一つ気になることとして、これは別に、
「清水刑事の失踪」
と無理やり結びつけるということは無理があるのだろうが、
「何か、起こっている事件に共通点がある」
という漠然とした意識を持っている刑事が一定数いるということであった。
それを口にする人は、そんなにいなかったのだが、それは、
「口にするほどの信憑性はなく、あくまでも、漠然とした感覚だ」
と思っているからで、しかも、
「誰も触れようとしない」
ということで、
「自分の思い過ごしかも知れない」
と、自分たちで気にしているくせに、その反面否定しようというのだ。
それこそ、
「プラスとマイナスを足すことで、限りなくゼロに近づいている」
という感覚であった。
「世の中って、何か、曖昧なものほど、本当は気にしないといけないものなのかも知れないな」
とお互いに感じていた。
「今年の事件の漠然とした共通点」
というのは、捕まった犯人たちが、口をそろえるかのように、
「別に、犯罪を犯す気はなかった」
ということであった。
さすがに最初にそれを聞いた刑事は、いら立ちから、
「だったら、犯罪なんてばかなことをしなければいいじゃないか」
と叫んでいたが、要するに、
「やった犯罪の割には、動機が薄い」
ということで、中には、
「動機というのは、あまりにも薄い」
と思えるほどで、
「どうして、そんな意識で人殺しなんか平気でできるんだ?」
という気持ちだった。
そのうちに、
「無意識のうちに殺していた」
という供述をする人も出てきた。
しかし、動機もはっきりしていて、物証もあるのだから、
「事件としては、これほどはっきりとしたことはない」
ということになる。
だから、犯人もおとなしく捕まったのだが、その取り調べにおいて、捕まった時の潔さというものが、まったくないといってもいいだろう。
そんな犯人が結構いたのだ。
だからといって、犯行は認めている。それは、あくまでも、
「動機がはっきりしている」
ということで、
「今更抗ったとしても同じことだ」
と思っているのだろう。
起訴されることに関して別に問題もなく、裁判においても、
「罪状認否」
というものをひっくり返そうという意思はまったくなかった。
弁護側のやり方として、
「自供したのは、警察から供されて:
ということで、そもそもの、起訴事実を否定しようとする弁護士もいる。
もちろん、弁護士というのは、
「依頼人の自由塗材あsンを守るのが仕事」
ということなので、それくらいのテクニックはするだろう。
しかし、検察側からすれば、
「刑事が正当な操作方法で調べてきたことをもとに起訴した」
ということであるから、
「勧善懲悪」
という気持ちが強く、
「犯人だ」
ということで思い込んでいる被告に対して、
「いかに罪の重さを認識させ、正当な罰を受けさせるか?」
ということが仕事である。
そういう意味では、
「弁護士も検察も、それぞれに、事件の真実というものを知りたい」
ということに変わりはない。
ただ。問題は、
「事実と真実の違い」
ということである。
時々、刑事ドラマやアニメなどで、
「真実は一つ」
などと言われていることがあるが、
「それは本当のことなのだろうか?」
真実というものを、事実と混同して考えると、
「真実は一つ」
だなどということになるのだろう。
「そもそも、真実というものは、たくさんある事実を結びつけたものだ」
ということであり、
「スタートとゴールが決まっていて、その途中の過程が分かっていないという場合に、事実という一つしかないものが並んでいるとして、その道筋も必ず一つしかないものだ」
ということがいえるだろうか?
ということであった。
というのは、
「真実が一つしかない」
というのであれば、
「事実を積み重ねていくだけで、そこから見えてくるものが真実でしかない」
ということで、何も、裁判で、
「真実の究明など必要はない」
ということだ。
だから、へたをすると、
「情状酌量」
などという考えはありえないということになり、
「裁判というのは、すべてが簡略され、今の簡易裁判のように、簡単に量刑が決まる」
ということになるであろう。
それを考えると、
「殺人事件」
というものも、
「窃盗」
という事件も、すべて、その罪状だけで刑罰も決まってしまい、法律にある、
「いくら以上の罰金、または、何年以上の懲役」
などということもなくなり、以上という言葉がいえることになるだろう。
そして、情状酌量がないということで、
「執行猶予」
というのもなくなるかも知れない。
実際に、
「執行猶予中に犯罪を犯す」
という人もいるわけなので、中には今でも、
「執行猶予などない方がいい」
と考える人もいて不思議のないことである。
中には、
「罪を逃れたい」
という一心で、弁護士にまで嘘をついて、結局、
「弁護のしようがない」
ということで、弁護士を降りられるということだってあるのだ。
弁護士は、必ず、
「真実を話してください」
と最初にいうはずだ。
それに従って動けばいいものを、
「少しでも刑を逃れたい」
という思いがあることで、一番大切な信頼関係がなくなってしまうということで、
「弁護士とすれば、これほど嫌な気分になることはない」
ということである。
検察側も、それなりに、自信をもって犯人を起訴した。少なくとも、
「公判を維持できない」
ということであれば、
「起訴に値しない」
ということから、期限が来るか、その前に、
「証拠不自由分」
ということで、その場は釈放しなければいけなくなる。