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裏の裏

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 そもそも、
「不要なもの」
 ということであれば、それが善であろうが、悪であろうが関係ない。
「ないに越したことはない」
 といえるだろう。
 だから、
「物事の根拠」
 というものは、
「善悪が、最重要問題」
 ということではなく、
「要不要」
 というものがあっての、
「善悪」
 ということになるのではないだろうか?
 だから、内偵をしている時も、
「善悪」
 という観点よりも、
「要不要」
 という観点から考える。
 会社の部署でもそうではないか、
「いくら善ということであっても、会社に損を与えるというものであれば、不要ということで、持たない」
 というのが当たり前だ。
 もっとも、会社において、
「損を与える」
 というものは、その時点で、
「悪だ」
 ということで、
「不要なものだ」
 という考えは当たり前のことである。
 そういう意味で、
「要不要」
 という考えが、そのまま、
「善悪」
 に当てはめてもいいのかも知れない。
 物事には、どんな場合には例外というものはあるということで、まずは、例外を外したところから、大きなことが決まり、その後で、
「例外というものが出てきた時、どのような対応をすればいいか?」
 ということになるであろう。
 それを考えりと、
「世の中というものは、基本的には、決まった大きな流れがある」
 といってもいいだろう。
 例外ばかり考えていると、その流れをせき止めることになるが、場合によっては。その
「流れをせき止める」
 というやり方が、世の中のために役に立つということがある。
「だからこそ、臨機応変でなければいけない」
 ということになるのだ。
 内偵に入っていた清水刑事の行方不明を考える時、
「この内偵が善悪なのか?」
 ということよりも、
「要不要」
 のどちらだったのか?
 ということの方が問題だったのだろうといえるだろう。

                 洗脳の催眠

 かつて、半世紀くらい前から言われていることで、
「カプグラ症候群」
 というものがある。
 これは、
「自分の近しい間柄にある、例えば、家族や配偶者が、悪の秘密結社によって、入れ替わられている」
 ということを真剣に信じてしまうということでの、一種の、
「精神疾患」
 というものであるようだ。
 この話をテーマにした特撮であったり、アニメが昭和の頃に流行ったりした。
「宇宙人が、地球人と入れ替わって、気が付けば、その街に住んでいる人は、すべて、宇宙人を変わっていた」
 ということで、
「にわかには信じられることではないので、それを訴えれば訴えるほど、まわりからは、精神疾患と言われ、それを疑う人はいなくなる」
 ということになる。
 だから、オオカミ少年の話のように、
「まわりが宇宙人になっている」
 と、誰もが信じないことをいい続ければ、黙っていても、誰も、それが真実だとしても、信じなくなるだろう。
 もし、それが分かった時には、時すでに遅し、
「まわりはすべて、宇宙人になってしまった」
 ということになるであろう。
 それを考えると、
「自分の思い込みというのは、時として、真実を捻じ曲げる」
 といってもいいだろう。
 だから、人気アニメなどで、よく。
「真実は一つ」
 などといっているものがあるが、
「それが本当にそうなのだろうか?」
 と考えるのだ。
 それは、
「事実と真実」
 というものを混同しているからではないか?
 ということである。
 つまり、
「事実というのは、確かに変えることができない」
 というもので、だからこそ、
「動かぬ証拠」
 になるのだ。
 しかし、
「真実」
 というものが、
「本当に一つなのだろうか?」
 と考える。
「原因と結果を考えた時、原因から無数の結果が導き出されるというのは分かるのであるが、それは、その過程で、鼠算式に先が変わってくる」
 ということである、
 しかし、
「原因や、過程が、まったく同じであれば、導き出される結果というのもも、絶対に一つなのだろうか?」
 ということである。
「一つしかない」
 というのであれば、確かに、
「真実は一つ」
 ということになるのであろう。
 しかし、だったら、
「真実と事実。同じものだ」
 というエビデンスが存在し、簡単に証明できるものであろうが、
「同じものだ」
 という考えはどこからも見られるわけではない。
 事実というものは、
「実際に起こっている疑いのないもの」
 ということで、
「名実ともに一つしかない」
 といえる。
 しかし、真実というのは、
「その人個人個人の中で考える」
 ということであり。へたをすると、
「真実というのは、人の数だけ存在する」
 ということになるので、無数にあるわけだ。
 しかも、真実というのは、人の解釈によって変わるので、
「同じ事柄に当たっている人であっても、それぞれに相対していたり、敵対していれば、当然のごとく、真実は違うものになるだろう。
 さから、
「真実を正義」
 ということで考えるから、
「自分には大義名分がある」
 ということで、争いになるのだ。
 戦争になることもあり、だから、戦争には、必ず、
「宣戦布告というものが必要」
 ということで、その中に、
「自分たちの真実」
 を織り交ぜる。
 それによって何が正しいのかということを見極めたうえで、
「第三国が、どちらにつくのか。あるいは、中立を守るのか?」
 ということになる。
 だから、
「宣戦布告なき戦争」
 というのもかつてはあった。
「大東亜戦争」
 における前哨戦といってもいい、
「シナ事変」
 というものが、
「大東亜戦争勃発」
 の際に、日中戦争という形に正式になった。
 それは、
「シナ事変」
 の段階では、宣戦布告をすれば不利になったからだった。
 というのは、
「宣戦布告をしてしまうと、第三国が、もし、中立を宣言すると、片方の国に書耐えれができないのは当たり前で、物資援助もできない」
 ということであった。
 実際に、アメリカは、
「議員の許可がなければ戦争はできない」
 ということで、物資援助まではいいが、宣戦布告ができないということで、
「中立しかなかった」
 ということなので、中国側は、宣戦布告はできなかったのだ。
 日本側も、
「戦争状態」
 ということになれば、
「欧米列強をすべて的に回しかねない」
 ということで、躊躇したのだ。
 最終的に、
「大東亜戦争」
 に突入することになるわけだが、それは、
「相手が仕掛けてきた戦争」
 ということで、その様相が変わってきたのだ。
 それを考えると、
「大日本帝国」
 というのが、
「いかに、欧米列強を意識し、刺激しないようにしていたのか?」
 ということが分かるというものだ。
 ただ、
「大東亜戦争」
 においての、
「大義名分」
 というのは実に立派なもので。戦争に負けたことで握りつぶされたのは、
「実にもったいない」
 といってもいいだろう。
 だから、かの戦争は、
「太平洋戦争」
 などという、
「勝者にとって、不都合な名前を押し付けられたところまでは仕方がない」
 といえるが、
作品名:裏の裏 作家名:森本晃次