最後の天使
上級コース」
というのは、
それまでの仕事で、一応の成果があったことで、
「優秀な社員」
ということで集められ、
「会社の頭脳」
としてのシステム部というものを担うということで、大変な仕事だ。
しかも、
「今までとまったく違った仕事だ」
ということで、まったくやったことのない仕事を、それまでの実績を一度かなぐり捨てる形になるのだから、
「これはこれで大変」
ということであり、
「へたをして、大きなトラブルを発生させてしまうと、責任問題になる」
ということで、しっかりと、覚えなければいけないということになる。
同じ、
「死活問題」
というわけであるが、
「立場も責任という問題も、その処遇からもが、正反対であるが、死活問題であることに変わりはない」
ということを、教室としても、しっかりと把握しているということだ。
もっとも、
「これくらいのことが分からないと、教室の責任者にはなれない」
ということである。
しかも、本業とは違うところでの事業なので、
「彼らとしても、失敗すれば、自分たちの首が飛ぶ」
ということは、分かり切っていることであった。
だから、そういう意味で、
「一番適当にできるのが、中級コース」
というわけだ、
前述のとおり、
「問題が起こっても、しょせん、他にもいっぱいある教室の一つ」
ということで、逆に早々と対応できれば、
「あの教室は、他にくらべて、対応が迅速」
ということで、評価がうなぎのぼりとなり、収益に大いにつながるというこおとであった。
そんな教室というのが、今では、評判になっていた。
というのは、
「この教室は、初級コースも上級コースも充実している」
ということと、
「教え方が優しく、上手だ」
ということが評判になっていた。
特に、彼らは、
「元々が、学校の先生や塾の教師」
という人が多く、
「教え方に長けていた」
ということである。
しょせんは、中級コースであり、実際に、それくらいの知識は、学校の先生をしていれば、普通に身につく」
というものである。
しかも、今の時代、
「ブラック」
というのは、
「教師がその最先端だ」
と言われていることから、
「教師を離職する」
という人が多いというのも事実で、そのおかげで、カルチャー教室に、
「元教師」
というのが多いようだ。
それに、パソコン教室というのは、中級であれば、
「ある程度の基礎が分かっていて、ビジネスに役立てるために最低限必要なところまでわかればいい」
ということであった。
だから、初級編で起訴を覚えた人が、そのまま、
「中級教室に転入する」
ということも当たり前にあり、今では、
「中級クラスを増やす必要があるのでは?」
と言われるようになったのだった。
スズラン
教師というのは、昔であれば、
「公務員」
ということで、
「楽な仕事」
と思われていた時代もあった。
ただ、昔から、教師は、
「割に合わない」
とも言われていた。
「制とは、夏休みなどがあるのに、教師は休みだろうが、学校に来なければならない」
しかも、
「休み中は、飛行に走らないかということで、見回りもしないといけない」
つまりは、
「教師としての仕事の他に、指導員のような仕事もしていたことを考えると、給料は安いし、仕事は多い」
ということだったのだ。
さらに、生徒に逆恨みされることもあり、卒業式の後など、
「お礼参り」
ということで、復讐の袋叩きということもあっただろう。
今の時代には、そこまではないが、割が合わないというのは、変わっておらず、さらには、
「精神を病んでしまう」
ということも普通にあるのだ。
そもそもは、
「政府の対策」
というものが、すべての原因だろう。
戦後というと、どうしても、
「教育が行き届いていない」
という問題があり、
「戦後復興において、海外から輸入したものを使いこなせるだけの知識や教養が足りていないということで、
「教育レベルの向上」
というものが急務となってきた。
だから、そんなレベルの強化ということで、
「詰め込み教育」
が行われた。
それのおかげで、
「教育水準は上がった」
といえるが、そのかわり、成績の悪い人たちが、
「落ちこぼれ」
というレッテルを貼られ、授業についていけないことから、退学していったり、不良化しているということになったのだ。
そんな彼らが、チンピラと結びついたりするから、最後に、
「お礼参り」
などということになる。
昭和の頃などは、よく学校の窓ガラスが割れているというシーンを目にしたことだが、
「落ちこぼれ」
というものに対しての対策を何ら考えてこなかったことが招いた悲劇と言えるだろう。
しかも、当時の教育者は、彼ら落ちこぼれに対して、
「腐ったミカン」
などと表現し、
「腐ったミカンが一つでもあれば、そのまわりもすべてが腐っていく」
ということを言っているのだった。
そして、そんな落ちこぼれが、チンピラなどと結びつくことで、
「反社会勢力」
というものが増えてくるという、
「社会問題」
を生むのであった。
それを、
「さすがにまずい」
と思ったのか、遅まきながら、文部省の方から、教育カリキュラムの見直しが行われ、今度は、
「ゆとり教育」
などと言われる方針が取られるようになった。
会社でも、
「週休二日制」
というのが当たり前ということになり、今度はそれを学校でも行うようになったのだ。
そうなると、基本的な一週間の学校での拘束時間が減ることになり、本来であれば、
「一年間で教え化ければいけない科目を教えることができない」
ということになる。
すると、今度は、
「教育水準が下がる」
ということになり、
「本来であれば教えなければいけないところまで教えられず、進級するということになるのだ」
入学試験でも、
「本来終わっているはずのところ」
として出される問題が、
「学校によって、進行状況が違う」
ということなので、
「習ってないところが問題に出た」
ということにだってなりなねない。
「ゆとり教育」
だからといって、進学するのに、入試がないということはないのだ。
そういう意味で、しっかりとした学力がついていないというのは、そもそもの教育理念からすれば、
「本末転倒だ」
といってもいいだろう。
かといって、今まで週休二日だったものを簡単に、前の体制に戻せるわけもない。
「だから、今度は教師にそのしわよせが来る」
ということになる。
教師がいかにうまく、
「教育カリキュラムを進めようとしても、生徒の基礎レベルが違う」
という、
「元々の問題」
というものが解消されなければ、この問題は、
「いたちごっこを繰り返す」
ということになる。
それを考えれば、
「しわよせが教師にくることで、精神疾患になる」
というのも十分にありえることだ。
しかも、昔のような、
「指導員のような仕事」
もしなければならない。