最後の天使
というのは、社会問題ということで残ったものであり、それが、いまだに解決できていないというほどの、大きな問題だったということは、その時は、おもや、分かっていることではなかったことだろう。
その一つとして、一番大きかったと思えることで、
「公害問題」
というものであった。
特に、
「四大公害問題」
と言われる問題は、その訴訟は、いまだに行われていて、へたをすれば、保証をされないままに、この世を去ったという人もたくさんいたことだろう。
そもそも、さらに前の戦争の時における、
「原爆被害訴訟」
というものでさえ、
「そろそろ80年が経つ」
と言われているのに、まだ解決していないではないか。
問題が起こるのは一瞬に近いものだが、その解決までに、
「人の一生では足りないくらいの期間がかかる」
というのは、どういうことだろうか。
確かに、裁判なのだから、どちらの立場もしっかり調べ上げて、公平な判断を下すには、一定の期間がかかるということになるのだろうが、
「一生かかっても解決しない」
というのは、結局は、
「裁く方としては、しょせんは他人事」
と思っているということになるのであろう。
それを考えると、
「政治家や、法に携わる人間に、ろくな人がいない」
ということになるのだろう。
少なくとも、被害者は、そう感じているに違いない。
だから、
「バブル経済」
というものの最中に、
「誰も、その崩壊というものを予知できた人はいなかったのか?」
ということになるのだろうが、
「実際にはいたのではないか?」
と思われる。
もちろん、
「これをいきなり言えば、大パニックになり、もし、違う形で崩壊し、それが自分の提言によるものだ」
ということになれば、
「取り返しがつかない」
と思え、結局は、
「警鐘を鳴らすということをためらってしまい、何もいえなかった」
という人がいてもおかしくはない。
しかし、バブルの崩壊というものを予知していた人がいたとしても、
「本当にここまでひどい状態になる」
ということを予想できた人はいただろうか?
「バブルが崩壊し、社会不安が高まる」
ということは想像できても、
「まさか、銀行が破綻する」
ということまで想像できた人はいなかっただろう。
何しろ、
「銀行は絶対に潰れない」
と言われてきた。神話だったのだ。
それが、実際には、
「一番最初に破綻したのが銀行だった」
ということで、今から考えれば、それも当たり前のことで、
「バブル経済とは実態のないもの」
ということなのだから、それも当然だ。
そもそも、当時、
「バブル経済というのが、実態のないものだ」
ということが分かっていた人がどれだけいたのかということである。
それが分かっていれば、
「銀行だって危ない」
ということは想像がつくだろうが、どうしても、
「銀行は潰れない」
という神話を信じているのだから、想像がつかないということも無理もないといってもいいだろう。
だから、
「ここまでの大惨事になるとは」
と、楽天的に見ていた人は多いだろう。
そう、
「地域的な災害であれば、他からの援助で何とかなる」
ということなのだろうが、
「日本全国で災害を起こした」
ということであれば、
「他県からの援助も、物資もない」
ということだ。
つまりは、
「日本中どこにも逃げられない」
ということと、インフラがめちゃくちゃなので、情報も入ってこないので、
「まさか、こんなにも大災害になっているとは」
と思うのも無理もないことだろう。
それが、
「バブル崩壊」
というものだったのだ。
インフラがめちゃくちゃにはなっていないが、
「景気が戻ってから、最高潮のピークを迎えたところではじけたものだから、誰も、その対先など分かるわけもない、何しろ、頂点に上り詰めたこともないわけだから、その頂点の高さも、足元が開いて、そこから落とされる奈落の底がどうなっているかなどということが分かるわけもない」
ということになるのだ。
「即死」
ということになるか、
「即死はしないが、二度と出られないということで、ただ死ぬのを待つしかない」
という状態で、結局は、
「即死の方がよかった」
という、
「究極の選択」
というものが待っているだけだったのだ。
それが、バブル崩壊というもので、そのための対策がたくさん出てきたが、その一つとして、
「リストラ」
というのがあった。
そのリストラは、結局は、
「収入に限りがある」
あるいは、
「今までに比べて、ほとんど望めない」
ということになれば、会社によっては。
「仕事をすればするほど、損をする」
というところもあるだろう。
かといって、何もしないと、支出だけということになるので、それくらいなら、
「倒産の方がましだ」
ということになるのだ。
そうなると一番の問題は、
「支出を減らす」
ということで、
「経費の節減」
ということになる、
その最たるものが、一番経費として掛かっているのが、人件費だということで、人件費節減目的の、
「リストラ」
というのが行われるのだ。
そうなると、いくら仕事が減ったとはいえ、
「大量リストラ」
を行ったところでは、仕事が今までの2割減ったとして、人件費節減のために、社員を半数にしてしまうと、残った社員一人の仕事量は、かなりのものになるということは、小学生にでもわかるというものだ。
しかも、
「経費節減」
ということで、
「残業代は出ない」
ということになれば、
「サービス残業」
ということになるのだ。
つまりは、リストラというものによって、
「会社を辞めるも地獄、残るも地獄」
ということになるのであって、
「どっちがいいか?」
ということは、ハッキリとはいえないだろう。
なんといっても、
「サービス残業をしていれば、安泰な会社で、定年まで仕事が保障されている」
というわけではない。
それこそ、
「いつ、次の大規模リストラが行われるか分からない」
ということで、
「日々の業務をこなしている場合ではない」
と、誰もが不安に感じることであろう。
だから、大量リストラが行われる中で、とりあえずは、
「会社にしがみつくしかない」
ということであったが、
「時代はそれを許さない方向に向かっていた」
というのだ。
それが、それまでは当たり前と言われてきた、
「終身雇用」
というものと、
「年功序列」
というものが、崩壊していくことであった。
もっとも、この二つは、
「日本独自」
というもので、アメリカなどの大国ではそんな発想はなかった。
日本国内でも、優秀な人材が、本当に、その人にふさわしいところにいるかというと、この二つの足かせによって、そうもいかないというのが、それまでの日本だったのだ。
つまりは、
「いくら優秀であっても、会社では、年功序列。よほどの成果がなければ、先輩を差し置いて、出世」
というのはなかっただろう。
しかし、それが起こったとすれば、その人はかなりのエリートで、優秀な人材ということで、他の会社からの、