二刀流の行きつく先
と言われるほど、簡単なものではないということであった。
審査員は、合計6名、この出版社の変なところは、
「審査員は、プロ作家であれば、ジャンルは問わない」
ということであった。
「ミステリー大賞」
と謳っているにも関わらず、
「どんなジャンルの作家が審査員にエントリーしてもいい」
ということになっている。
もっとも、原稿の応募規定には、
「広義の意味でのミステリー」
ということで、何も、
「推理小説に限る必要はない」
ということである。
そもそも、どこの出版社の、
「ミステリー大賞」
であっても、一応は、
「広義の意味でのミステリー」
と言われているので、別に珍しいということではない。
それでも、同じ賞であれば、
「毎年の傾向」
というのは分かっているので、賞に出す場合の、
「傾向と対策」
というものは分かっているというものだ。
他の、
「例えば、文学新人賞」
というのがあった場合は、
「ジャンルは不問」
というところが多い。
しかし、毎回、審査員が同じということになれば、自ずと、その傾向は分かるというもので、
「それは、毎年の受賞作を見ればわかる」
という人もいる。
しかし、それだけであてになるものではない。
なぜなら、
「新人賞」
であったり、
「文学賞」
というものは、その傾向がはっきりしないのは、
「選考に関しては、まったくのオフレコだ」
ということだからである。
基本的にわかるのは、
「それぞれの段階での通過者」
というだけで、
「その人たちのジャンル」
というものまではまったく分からない。
ということになる。
さらに、
「最終選考に残った作品は、批評であったり、実際に掲載されたりということで、その傾向は分かるのだが、なんといっても、最終選考に残ったという作品なので、作品数は、5、6作品というのがいいところだろう」
ということで、
「実際にその作品のジャンルを調べたとして、その作品が、すべてミステリーだった」
ということであるから、
「ここの賞を通過には、少なくとも、ミステリーの方が有利だ」
と果たしていえるだろうか?
確かに、応募原稿のジャンルが、
「恋愛、ミステリー、ホラーなどと、バラバラで、さらに、それらがきれいに分布されているとすれば、残ったのがミステリー」
ということであれば、
「なるほど、ミステリーが強い」
と言えるだろう。
しかし、たまたま、今年は、ミステリーが多いということであれば、
「通過作品にミステリーが多い」
というのは当たり前のことだ。
それに、
「ジャンルは、不問」
と言っているのだから、作家の応募作品を、すべてのジャンルだと考えれば、
「選考委員がバラバラのジャンル」
というのは当たり前で、そこから、傾向と対策というのを練るのは無理というものであろう。
ただ、数年にわたって調べていれば、それも可能というもので、
「そのためには、数年のバックナンバーを手に入れて、研究する必要がある」
ということになるだろう。
確かに、
「傾向と対策を練って、作品を作る方が、受賞する」
ということだけを目指すのであれば、懸命だろう。
それだけ、真摯に賞と向き合っているということであり、まじめな性格だということは認めざるを得ないだろう。
だからといって、まじめだからと言って、入選できるとは限らない。
なんといっても、
「入学テストではない」
ということだ。
それよりも、
「自分の書きたい作品と、いかに真摯に向き合うか」
ということになるわけで、その方が、
「入選してから、実際に、プロとしてやっていくための覚悟や心構えができている」
ということになるのではないだろうか。
それを考えると、
「新人賞に入選することは、登竜門であって、ゴールではないのだ」
ということになるだろう。
そもそも、賞というものにとって、
「選考委員」
というのは、
「最終選考に残った作品しか見ない」
ということだ。
一次審査から、最終審査まで、同じ審査員が、毎回作品を読み返すというのはおかしなもので、
「最後の一回に見るのが、最終選考委員」
ということで、それまでに落とされてしまえば、
「傾向と対策など、どこにもない」
ということになるだろう。
一次審査を見るとは、
「下読みのプロと呼ばれる人たち」
であり、彼らはまず、
「小説の体裁が整っているかどうか?」
ということだけを見るのだ。
応募作品が例えば、
「300作品あったとして、下読みのプロが10人いたとする。その人たちが、約30人の作品を見る」
ということになるので、実際には、
「形式的な判断」
しかできないということになる。
要するに、
「誤字脱字であったり、文章の書き方の基本ができているか?」
ということを、機械的に見ていくというだけのことである。
「機械的なことを、人間による人海戦術で行う」
ということなのだから、中には見落とし」
というのもあるだろう。
もっとも、それが、
「プロ作家であっても同じこと、しかも、毎回ずっと同じ機械的なことをしていれば、ミスが起こっても仕方がない」
だから、選考に関しては、
「秘密」
ということであろう。
ただ、今では、ほぼ、皆分かっていることで、せめて応募者くらいは、これくらいのことは常識だといってもいいだろう。
そもそも、
「それくらいのことを知らないくせに、応募してくる」
というのは、それこそ、
「冷やかしレベルだ」
といってもいいだろう。
だから、最終選考に残っただけでもすごいことだ。
300人もいれば、その中の半数以上は、真剣にプロになりたいと思っての応募でもないと考えられる。
中には、
「自分の作品の腕試し」
というくらいに考えている人や、
「入選すれば、儲けもの」
と考えている人もいるだろう。
そんな人を、一刀両断に、
「文学賞をなめるんじゃない」
と言えるだろうか。
確かに真剣に入選を目指している人からみれば、
「邪魔で仕方がない」
と言えるのだろうが、
「間違ってそんなやつらの作品が入選でもすれば」
と考えてしまうい人もいるだろうが、
「きっとそんな人は最初から賞というものや、その審査に対して信じていない」
ということになるわけだ。
それで、
「真剣に応募した」
と言っているとすれば、それは、
「言葉に矛盾がある」
といってもいいだろう。
小説家として、
「デビューしたい」
と考えるくらいであれば、何も応募するところを疑うというのは、本来なら筋近いであろう。
しかし、応募者からすれば、
「選考に関しては、一切のことに関して、答えられない」
ということであったり、
「応募原稿は返却しない」
ということを見れば、
「どこかうさん臭い」
と思ってはいけないというのは、少し酷ではないだろうか?
本当は最初から決まっていて、
「出来レースなのだ」
と思えないわけもない。
特に、かつてブームであった、
「自費出版社系の詐欺会社」
というのが社会問題になった時、