二刀流の行きつく先
ゴールデンであっても、深夜枠であっても、視聴率が高ければ、ランクは上なのだ。
つまり、逆を言えば、
「ゴールデンだからといって、視聴率が一定以上は望める」
ということはないのである。
それだけ、
「深夜帯に起きている」
という人が多いということになるのだろう。
それが、
「皆夜更かしになった」
ということなのか、それとも、
「不眠症の人がたくさんいる」
ということでの、
「精神疾患」
ということによる、社会問題となっているということなのかも知れない。
そもそも、昔であれば、
「そんなに深夜、ずっと番組を流している」
ということもなかっただろう。
昔であれば、
「砂の嵐」
と言われる、
「気が付けば寝ていて、深夜に起きると、番組は終わっていた」
ということでの形容ということで言われていたことだった。
それこそ、
「草木も眠る丑三つ時」
ということで、テレビ番組も、
「そんなに遅くまでやっていない」
ということだった。
しかし、世の中が、
「24時間営業」
というものが当たり前だといわれる時代になり、
さらに、
「正月も店を閉めない」
というところが増えてきたことで、今では、
「元旦の朝から開いている」
という、
「年中無休」
という、スーパーチェーンも、今では当たり前のようになっているということではないか。
もちろん、コンビニは24時間が必須。(ただ、例の世界的なパンデミックという問題から、最近では、24時間ではないコンビニも増えてきた)
ただ、最近では、そのピークもコンビニと同じでなくなってきて、それまで24時間営業だったところが、減ってきているのも事実だった。
「世界的なパンデミック」
に便乗する形で、
「本当であれば、24時間営業というものを、辞めたいと思っているところが結構あったのではないか?」
と考えるのだが、
「サービスというのは、一度初めてしまうと、何かの革新的な理由がなければ、簡単にはやめられない」
ということだ。
なぜなら、
「24時間だから利用した」
という客がすべて他に流れるからだ。
「客が減る」
というだけならまだいいが、他のライバル会社に、その客が流れるということは、
「損をしながら、チャンスロスを増やしている」
ということで、他との比較で考えれば、
「売り上げが減った分、倍の形で、他と会社との間に差ができた」
ということになるということだ。
そんなことを考えると、
「一度始めたサービスを辞めることは難しいので、実際にサービスを始める時も考えないといけない」
ということになるだろう。
もちろん、始める時はそんなことは考えない。
「他が初めて、利益を出している」
ということになれば、黙って見ていることなどできるはずがない。
それこそ、
「そんな消極的なことで、ライバルに勝てるか?」
ということであり、
本来であれば、
「イケイケどんどんの時代」
であれば通用するかも知れないことを、ずっと続けてきたというのは、それこそ、
「時代錯誤も甚だしい」
といってもいいだろう。
そんな、時代の流れというものが、
「テレビ放送にも大きく影響している」
ということで、
「時代をいかに、見ていくか?」
ということが大切だが、たまに、
「時系列だけを追いかけていても、うまくいかない」
ということもある、
それは、きっと、
「時代が限界にまで言っていて、一周まわってきた」
と言えばいいのか、それとも、
「時代を逆行している」
と言えばいいのか。
「とにかく、
「猪突猛進ではいけない」
ということで、
「いつどこで、冷静になって、事態を見直すことが必要なのか?」
と考えることが大切であった。
そんな時代錯誤は、ちょうどいま。
「テレビが普及し始めてから、半世紀と少し経ってきているが、そろそろ、時代の限界というものが見え隠れしている」
という考えから、
「すでに、50年経ったあたりで、一つの時代の限界を迎えたのではないか?」
と言えるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「また、ドラマ化一つをとっても、テレビ創成期というものを、見直す必要が出てきたのではないだろうか?」
と考えられるのであった。
K出版社ミステリー大賞
「K出版社ミステリー大賞」
という賞を、今年になって受賞した作品があったが、その作品の中で、入賞というわけではなかったが、最終選考に残った作品があった。
その最終に残った作品も、文庫化まではされないが、その出版社が、その賞を募集している雑誌で、月刊誌であるが、その出版社の、
「看板雑誌」
ということで、
「小説行燈」
というのがあった。
そもそも、この雑誌社は、
「せこせこと、喧騒とした小説業界を、のびのびと過ごしていきたい」
という意味で、そんな名前にしたのだという。
つまり、
「そんなに明るくなくてもいいが、歩くのに不自由のない明るさくらいで、過ごしていく」
ということからついた名前の雑誌だった。
だから、このミステリー大賞に関しては、他の雑誌社の文学賞などとは、その趣旨が違うことから、
「受賞は難しい」
と言われている。
しかも、
「受賞したからと言って、他の出版社ほど、プロデビューが画策されているわけではない」
というのに、なぜか、応募率は高かったのだ。
それは、評判として、
「ここの文学賞には、他の文学賞とくらべ、傾向と対策が取れない」
ということからであった。
というのも、ここでは、そもそも、
「最終的な選考委員というのが、毎回違う」
ということだったのだ。
理由に関しては明かされていないが、それだけにいろいろなきな臭いウワサがあった。
「毎回、選考委員は、公募のようなもので決まる」
ということを言われ、
「選考委員になりたい人は、自分から立候補し、出版社から認められれば、晴れて審査委員になれる」
ということであるが、それも、たったの一年。
どんなことがあっても、それ以上する場合は、
「来年にもう一度ノミネートしないといけない」
ということであった。
あくまでも、ウワサであるが、
「毎年、一定の上納金がその年の審査員を決める」
ということで、一種の、
「落札制度のようなものだ」
というウワサがあった。
つまり、
「わいろ」
ということであり、それでも、立候補する作家が多いということは、
「それだけ、この出版社の審査員になれば、自分の作品が売れる」
ということであった。
この賞に関しては、曖昧な点が多いが、
「出版社としては、これ以上大きなところはない」
という証拠であろう。
もちろん、どこまでがウワサ通りなのか分からないが、作家としても、
「この賞の審査員は、一種の登竜門」
というわけだ。
そもそも、ここの審査員に応募してくる作家も、もとはここで受賞したことから作家になった人もいる。
つまりは、出版社とは、
「元々つながっている」
ということになるのだろうが、だからといって、
「出来レース」