二刀流の行きつく先
ということで、必要なものではないかと言えるだろう。
それも、一種の
「必要悪ではないか?」
ということになるのだった。
前述の、
「必要悪」
ということで、
「コネ入社」
というものを書いたが、それよりも、よほど、
「役に立つ」
といってもいいだろう。
つまりは、
「嫉妬心というのは、ライバルがあってこそ抱く感情」
ということで、
「ライバル」
というのは、
「好敵手」
ということで、
「好」
という字を使うではないか。
この場合の、
「好」
という字をあてはめられる言葉として、
「好都合」
といってもいいだろう。
なぜなら、
「好都合」
というのも、
「あまりいい意味では使われない」
ということから、考えられることではないだろうか?
「自分にとっての、好敵手」
というものがなければ、
「そもそも、目標も立てられない」
というもので、何においても、達成するためには、その関門というものは絶対にあるものだ」
と言えるだろう、
それが、学校であれば、
「入学試験」
会社であれば、
「入社試験」
ということで、それにパスするために、
「自分の実力がどのあたりにある」
ということを知る必要がある。
だから、
「模擬試験」
というものが存在し。そのテストで、自分の順位とその平均点から、
「自分の実力は今どのあたりで、目標の学校に入学できるか?」
ということが、
「偏差値」
というもので表されるということだ。
さすがに、就職試験というのは、そんな杓子定規にはいかないものだが、
「会社の特徴」
ということであったり、面接官の心証を得るためにどうすればいいかというのを研究するにも、ライバルというものが、今度は、試験突破のための仲間ということになるともいえるのだった。
「昨日の敵が今日の友」
ということで、
「ライバルが仲間になる」
ということだってあるわけだから、
「必要悪」
というよりも、
「本当に必要なもの」
ということで、ライバルとともに、
「嫉妬」
というのは、必要なものだといえるのではないだろうか?
だから、俳優として引退すると、
「これからどうするか?」
ということになると、考えられることとしては、
「小説家として、一本でいく」
ということであった。
大団円
しかし、実際に俳優を引退してみると、自分の中で、何かが消え去ってしまうという感覚に襲われ、
「何をしていいのか?」
あるいは、
「何をすべきなのか?」
ということが一切分からなくなってしまい、最初は、放心状態だったといってもいいだろう。
そもそも、
「自分が最初は何を目指していたのか?」
ということを考えてみると、
「そのどちらも、目指していたわけではない」
ということに気が付いた。
確かに、最初は、
「小説家」
というものだった。
しかし、その入選というのも、
「俳優をやるうえでの、顔を売るという方法の一つに使われただけだ」
ということであった。
しかし、なぜか、自分では不本意だったはずの、小説家デビューだったはずなのに、今から思えば、
「目一杯に、自分を誇るというこがなかったことで、気楽にできたことが、小説家としての緊張を断ち切ったのかも知れない」
と思うのだった。
確かに、自分が小説を書いている中で、それ以上に、
「有頂天になってしまう」
ということになると、
「自分を見失ってしまうということになりかねない」
ということを、自分で分かっていたような気がする。
そして、
「自分の力で入賞した」
ということで、その有頂天は、収まらないだろう。
そうなると、
「自分の興奮を必要以上に高めてはいけない」
ということになるだろう。
それを考えると、
「俳優としての、顔を売る」
というくらいの状態の方が、逆に自分の血を逆流させるくらいの屈辱感で、
「却って、冷静になれる」
と考えるのではないだろうか?
そんなことを感じていると、
「この場合のライバルは、自分自身だったのではないか?」
と感じるのであった。
確かに、
「スポーツでは、ライバルというものがいなければ、平和ボケしてしまうという感覚からか、成長はない」
ということにある。
ということは、
「ライバルというのは、可視化されているといってもいい、別の人間であれば、それがベストであるが、それ以外に、自分のことをライバルだ」
と思えるような形に感じなければいけないと思うとすれば、
「それは、自分を奮い立たせるような、大きな屈辱感」
ではないかと考えると、
「そのつもりはなかったのかも知れないが、彼らが自分のやめにと思ってしたことが、自分としては、屈辱ではあったが、屈辱だけではない何かが自分を高めてくれるのではないか?」
というものであった。
今までの、
「ミステリー作家」
というものだけでなく、自分がいかに生き残るかということを考えると、
「この屈辱感を表に出す」
という考え方が一番いいのかも知れないと思うのだった。
屈辱感というものが、いかに自分を成長させてくれるかということを考えると、
「神話」
というか、
「寓話のような戒めの話」
というものを考えるようになった。
ギリシャ神話」
であったり、
「イソップ物語」
などの世界の話だけではなく、日本には、
「御伽草子」
というものがあり、
「おとぎ話」
というものを形にしたもので、これは、不思議なことに、まったく接点がないはずなのに、謂れのようなものに同じものが多かったりする。
というのは、たとえば、
「見るなのタブー」
などというのが、その一つだといわれる。
日本のおとぎ話などでは、
「浦島太郎」
「鶴の恩返し」
などがその代表例と言ってもいい。
「ギリシャ神話」
では、
「パンドラの匣」
の話であったり、
「聖書」
であれば、
「ソドムとゴモラ」
という話などがそのいい例だといえるだろう。
「見てはいけません」
であったり、
「開けてはいけません」
という約束をたがえた時に起こることとして、
「その戒めを受ける」
というものである。
たとえば、
「浦島太郎」
などは、
「決して開けてはいけません」
という、乙姫様からもらった玉手箱を、浦島太郎が開けてしまったことで、
「おじいさんになってしまった」
ということである。
浦島太郎の話においては、基本的に、おかしなところがあるといわれてきた。
「カメを助けたことでいいことをしたはずの浦島太郎が、最後には、いわれのない未来に連れていかれて、誰もいない世界に来てしまったことで、未来に対して失望することで、玉手箱を開けてしまった」
ということで、
「悲劇」
ということで終わっているということになる。
ただ、これは、本当は最後には、
「玉手箱を開けたことで、老人にはなるのだが、自分はそのあと、鶴になって、カメになった乙姫様と、
「ツルカメの仲」
ということで、末永く幸せに暮した。
ということであるが、これが本当のハッピーエンドかということなのだが、そもそも、