二刀流の行きつく先
だから、彼がヘッドコーチとして招集したかったのが、
「外国人だった」
というのは、ただの偶然ではないかも知れない。
もちろん、本人のすばらしさが最重要なところであるが、
「外国人」
ということで、メジャー通だったというのも、その理由の一つだったのかも知れない。
だが、
「選手としての二刀流」
というのを、
「本当にうまくいく」
と言えるのだろうか?
という話は、結構水面下で噂されていた。
実際に、その選手以外でも、他に、
「二刀流ができるのでは?」
ということで挑戦させてみたりを試みたところはあったが、結局、
「あぶはち取らず」
あるいは、
「二兎を追うもの一兎もえず」
ということで、結局は、どちらもものにならず、中途半端な形で、引退を余儀なくされることになった。
「二刀流に挑戦した選手」
ということで、誰かが注目してくるわけではない。
「失敗に終わったのであれば、なかったのと同じ」
ということで、ある意味、
「球団の都合に振り回され。結局、潰されて捨てられた」
といってもいいだろう。
それが、
「選手はもの」
という考えがあったからかも知れない。
今では、
「選手生命を考えないといけない」
ということから、
「球数制限」
であったりと、特にピッチャーに対しては、延命のために、いろいろ言われ、試されるようになってきたが、結局は、限界というものがあり、
「球団の客寄せパンダに利用された」
といってもいいだろう。
そうなると、
「せっかく、鳴り物入りで入ってきたのに」
ということになるのであり、そもそも、昔の選手などで、
「高校野球の優勝投手は、プロでは活躍できない」
と言われ、
「高卒が育たない」
と言われたのは、
「プロとしての基礎体力もない状態で、無理をさせられたことで、結局は、客寄せパンダにすぎなかった」
ということになるのだろう。
今は、そんなことがないように、
「二軍で、無理をさせないように大切に育てる」
ということも行われるようになってきたが、それが本当にいいことなのかどうなのか。難しいところであった。
そもそも、
「メジャーにわたった、二刀流の選手」
というのは、
「高卒でデビューし、いきなり二刀流ということでやらされた」
ということだった。
実際に、
「天才プレイヤーだった」
ということで、しばらくは、
「いい成績を残し、望み通り、メジャーへの移籍も叶ったことで、それこそ、
順風満帆なプロ野球生活」
というものをエンジョイしていたのであった。
だが、選手というのは、
「けがが付き物」
ということで、次第に、体力の衰えから、無理が利かなくなってきて。
「ピッチャーとしては無理」
と言われるようになり。
「打者一本」
ということになったのだが、そのとたん、ファンというのは現金なもので、
「それまでの二刀流」
というのがなくなると、さっさと他の選手に眼が行くようになったのだ。
その選手とすれば、、
「プレッシャーから解放はされたが、なぜか、打者一本になると、打撃成績はがた落ちとなり、結局、打順も、下位打線を打つようになり、さらに代打でということになると、プライドからなのか、選手を引退する」
ということになった。
本人の美学として、
「ぼろぼろになるまではやりたくない」
ということであった。
結局、引退を余儀なくされ、本来であれば、どこかのコーチ監督もありだたったのだろうが、それも断って、野球解説者ということになった。
それも、
「独自理論の展開が甚だしい」
ということで、あまり人気が出ず、
「そちらでは、あまり人気がなかった」
ということであった、
つまりは、
「二刀流でなくなった」
という時点で、
「運命がまったく変わってしまった」
という例で、それは、結末までを書いたわけなので、読者には、その顛末が分かっていたが、物語の時系列としては、この話においての、
「現在」
というところは、
「その選手が、バッターとして専念するようになったはいいが、成績が伸びない」
という時代で、
「人気も、それまでから比べると、まるで火が消えたようになった」
ということであった。
「二刀流」
であったり、
「二足の草鞋」
というのは確かに、恰好はいいが、これも結局、口では、
「選手を守る」
などと恰好のいいことを言っても、しょせんは、
「客寄せパンダ」
ということであり、
「飼い殺し」
というものに近いといえるだろう。
だが、この選手は、
「散り際は、潔く」
と思っていたので、この結末については、悲観的にはなっていない。
「過去の栄光」
というものを忘れはしないが、しがみつくということはない。
「いい方向に向かう」
ということを目標に、
「やればできる」
ということを実践した選手だったということである。
小説家としての二刀流
プロ野球界の二刀流というのは、実際には、
「いやというほどニュースや雑誌で見ていた」
といってもいいだろう。
小説家の彼にとっては、
「小説家としてもそうだが、俳優として、ニュースに気を配るのは当たり前だ」
と思っていた。
しかし、実際は、芸能界に関してのニュースを見るのは嫌いだった。
というのも、そういうものを気にしてしまうことで、
「人の裏話」
つまりは、
「聞きたくもない耳が痛くなるような話」
というものを聞かないといけないというのは嫌だと思っていたのである。
つまりは、
「本来なら見たくもないニュースを見ないといけないというのが、ストレスにつながるのだ」
ということだったのだ。
最初に頃はそれでも、
「日本人が海外に行って、ニュースになるというのはいいことだ」
と思っていたが、次第に、鬱陶しテクなってきた。
というのも、
「そもそも、メジャーに行きたいから、日本のプロ野球に入った」
というような言い方をしていた。
確かに、ここ30年くらい前から、どんどんメジャーへ行くようになって、それこそ、
「日本で活躍すれば、メジャーにいける」
などという流れになってきていて、日本のプロ野球が好きな人も、
「メジャーで活躍している日本人選手を見てみたい」
と言っている時はよかったのだが、ここまで、
「猫っも杓子も」
海外に行ってしまうと、
「節操がない」
と言われても仕方がないような気がする。
最初の頃は、そこまで
「メジャーの試合」
というものを、中継はしなかったが、今のように、
「10人単位でメジャーに行ってしまうと、放送しないわけにはいかない」
ということになるのか、へたをすれば、
「日本のプロ野球中継」
というものよりも、
「メジャー中継の方が多い」
といってもいいだろう。
ただ、メジャー中継を行う放送局は、ほとんどが、
「某国営放送」
に限られている。
「国営放送」
ということで、
「中継が許されるのか」
それとも、
「金がたくさんかかるから、わりに合わないということで、日本の民放が手を出さない」