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闇が作り出した幻影

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「門から境内までを競争して、一位になった人を、福男として認定する」
 というものであるが、本来なら、
「神聖な境内で、何たることを」
 ということになるのだろうが、その日だけは、
「お祭り」
 ということで許される。
 しかも、それをあたかも、
「奉納行事」
 ということにするのだから、逆に問題ないということなのだ。
 もちろん、参道には、たくさんの参拝客もいるわけで、その時間だけは、警備をかなり増やしているが、限界もある、
 それを考えれば、
「よく事故が起こらないな」
 と思われるが、実際には事故が起こったということで問題になることはない。
 少しでも問題になれば、
「翌年から、その行事があるときは、参道に人を入れない」
 ということであったり、
「参拝客が入る前の一定の時間、それこそ、祭りのオープニングイベント」
 ということで、
「時間を決めてやる」
 ということであったり、さらには、
「そんな行事はやめてしまう」
 ということも当然言われることであろう。
 しかし、相も変わらず、毎年の行事として行われているので、問題がないということになるのだろう。
 そもそも、反対派の人は、その時間、神社に行かなければいいわけで、
「やりたい連中にはやらせておけばいい」
 というだけのことだろう。
 ただ、
「変な行事だな」
 と思っている人も少なからずいるわけで、決してみんなが望んでいる行事だというわけではないようだ。
 それでも実際に、運営に関わっている人には、そんなことは分からない。
 それだけ、
「熱い連中が多い」
 ということで、連星に見ると、そんな連中を含めて、
「なんと愚かな」
 と感じていることだろう。
 駅構内にしてもそうであり、
「駅自体が殺風景になったことで、寂しい」
 と思う人もいれば、
「そもそも、駅というものは、ただのターミナル」
 ということで、駅ビルであったり、駅前の商店街というのは、そこで店を出している人や、鉄道会社にとっては、
「駅前の活性化」
 という名目で、気にすることにはなるのだろうが、そこまで気にしなければいけないのかということは、それぞれに賛否両論あるのではないだろうか?
 殺風景に感じるのは無理もないが、
「まったく店がない」
 というわけではない。
「有名チェーン店」
 と言われるカフェであったり、
「ファーストフードの店」
 などは、いくつか存在している。
 しかし、賑やかな店と、閑散とした店とでは、その差が結構激しかったりする。
 閑散とした店は、すぐに閉店を余儀なくされ、まだ、駅前の区画整理が完了する前から、
「貸店舗」
 の札が貼ってあり、中はただの空室状態と言えるだろう。
 それこそ、
「殺風景」
 と言われるもので、何もないのだから、それだけ、寂しい状況に見えることで、
「さぞや広く感じるだろう」
 と思われがちだが、実際には、
「こんなに狭いんだ」
 と感じさせる。
 それこそ、
「錯覚」
 と言われるもので、
「何もない空間は広いものだ」
 という感覚があり、それを信じて疑わないから、実際に見てみると、自分が想定しているよりも狭いことから、
「さらに狭く感じさせられる」
 ということになるだろう。
 それを考えると、
「駅のこの無駄な広さ」
 というのも、実は、
「まだ慣れていないから」
 ということでの錯覚なのかも知れない。
 そのうちに、逆に狭く感じられるようになるのではないかと感じると、
「本来の広さを通り越して、狭く感じさせられることになるだろう」
 と思えば、
「錯覚というものは、本来のものを感じさせないようにするためのものではないか?」
 と考えるのであった。
 そもそも、錯覚というのは、
「自分が感じること」
 ということなので、
「自分の想像の範囲」
 というものを超えることはない。
 だから、
「想像の範囲」
 の外に飛び出さないように、従来であれば、見えているものが見えなくなる効果というものを感じさせず、
「錯覚は錯覚のままに」
 ということで考えるようになるのではないかと思うのだった。
 だから、
「有名チェーン店の喧騒とした満員状態の店内から、駅構内を見た時、最初は、殺風景なくらいに広い」
 と感じさせられたが、途中から、
「いやいや、実際には狭いんだな」
 ということを感じるようになるのだが、いかんせん、
「殺風景だ」
 という感覚が変わるということはないのであった。
 このあたりに新幹線が開通して、そろそろ10年という月日が経とうとしているが、これまでの間、全国でも、次々に整備新幹線が開業している。
 それだけ、
「最初に計画された時期が、同じくらいであったが、途中から、自治体の事情などによって変わっては来たが、最後は政府の都合ということもあり、中には、突貫で出来上がったところもある」
 ということのようだった。
 駅前の賑わいというのは、すっかりなくなったところが多く、
「整備新幹線問題」
 あるいは。
「駅前の区画整備問題」
 というのは、切っても切り離せない状況にあるということで、
「駅前に進出する企業も、様子見というところも少なくないに違いない」
 昔であれば、
「一つの路線の主要駅」
 であったり、
「私鉄の主要路線の主要駅」 
 というところには、駅前には、同じ企業の店舗というものが、当たり前のようにあったものだ。
 それこそ、
「鉄道会社とテナント企業」
 というものが、強く結びついていたということで、昔であれば、
「鉄道会社の力が強かった」
 ということかも知れないが、今は、テナントの方も注意深くなっていて、しかも、
「力が弱くなった鉄道会社」
 と心中はしたくないという思いがあるのではないだろうか?
 そもそも、鉄道会社の方も、本来の鉄道事業というものにおいて、果たして、その存在意義を示しているかどうかが、利用者から見て、
「もっとしっかりしよよ」
 と言われているようでは、どうしようもないということになる。
 というのも、最近では、
「事故や故障などによって、列車の遅延であったり、運休というのは頻発だ」
 と言われている。
 これは、今に始まったことではないが、昔の、
「国鉄時代から、民営化された頃」
 というのは、
「仕方がない」
 という人も多かったようだが、それにしても、ひどかった。
「10分遅れくらいだったら、誤差の範囲だ」
 と言われていた。
 しかも、それを、
「旧国鉄」
 というところは、
「そうだそうだ、仕方がない」
 と自分たちもそんな風に言っていたくらいなので、救いようがないといってもいいだろう。
 何しろ。人身事故が起こっても、
「人身事故ですからね。仕方がないですよ」
 と言って、愛想笑いをしていたという、とんでもない駅員がいたくらいだ。
 さすがに、その時は、利用客の神経を逆なでしたということで、猛抗議が起こり、さすがに、
「鉄道会社の上役が、記者会見で平謝りをする」
 という事態になったというくらいであった。
 要するに、
作品名:闇が作り出した幻影 作家名:森本晃次