闇が作り出した幻影
「人から強制される」
ということが悪いのだろう。
自分で勝手にする分には、問題ないが、特に、
「団体競技」
と言われるものが、そのドラマや漫画の舞台となるのだから、今の時代ではアウトになるのは当たり前である。
「野球」
であったり、
「サッカー」
「ラグビー」
などが、その象徴であるが、野球だけは別である。
「特に特訓するのは、主人公だけで、確かに他の人には共用させることはないが、団体競技であるだけに、その選手が、魔球開発のため」
ということで、シーズン中に特訓と称して、チームから離れ、単独行動をするのだから、本来であれば、昭和であっても、アウトなレベルである。
中には、
「監督が、許可をした」
という場合もあり、
「それこそ、団体競技にはあるまじき行為だ」
といってしかるべきではないだろうか?
それを考えると、
「スポーツ根性もの」
というのは、作家によって、または、
「そのスポーツの種類によって」
まったく違った発想になるということもあり、
「そんな曖昧な感覚」
というものが、まさに昭和の時代だったのではないかと言えるような気がしてきたのだった。
そんな昭和と今の時代のギャップが、一種の陰謀論への発想につながっていくのであろう。
陰謀論というのは、今の時代によく言われることである。
「ネットの普及」
であったり、
「スマホなどの携帯機器の発展」
がその導火線になっているのではないかと思うのだが、それは、
「今評判になっている」
というだけのことで、ひょっとすると、
「昔から言われていることであるかも知れない」
ということは、定かではない。
ただ、それを総称して、
「都市伝説」
という言葉で言われているとすれば、それはそれで、
「説得力がある」
ということになるだろう。
そもそも、
「オカルト小説」
というのは、
「ホラー」
のような、
「あくまでも、恐怖小説」
というものとは違うのではないだろうか?
オカルトというのは、どちらかというと曖昧なもので、
「都市伝説的なことが、恐怖を誘っている」
ということから、
「恐怖というものに近い存在と言われるのかも知れない」
そもそも、
「都市伝説」
というもの自体が曖昧なもので、
「曖昧だ」
ということ自体が都市伝説ということになり、それは、昔から続いているというよりも、
「ごく最近」
ということの方が意識的には強いものだ。
だから、
「都市伝説」
というものをオカルトと考えるのであれば、
「奇妙なお話」
というのも、オカルトと言えるだろう。
というのは、
「奇妙なお話」
というのは実に幅が広いもので、
「ごく普通の人が、ふとしたことで、怪しい穴に落ち込んで、そこで奇妙な体験をする」
などということを、まことしやかに、
「奇妙な話」
として書いたのが、そもそも、
「川崎が好きになった、短編の名手と言われた人の作品」
だったのだ。
その人の作風は、
「大人の小説」
といってもいい。
もちろん、
「アダルト」
という意味でもいえることで、
「アダルトな部分を、しゃれた文体で書く」
というところが、この作家の、
「名手たるゆえんだ」
といってもいいだろう。
この人の作品を最初に読んだのが、
「少しアダルトな作品」
ということで、ひょっとすると、
「他の作品であれば、俺はここまでこの作家に陶酔することはなかったはずだ」
と思っている。
それを思い起こさせたのが、
「中学時代に読んだミステリー」
だったのだ。
そういう意味で、この二つのジャンルは、
「俺の中で時系列でつながっているのではないか?」
と感じたのだ。
好きだった小説ではあるが、再度大人になって読み返した時、
「自分が大人になったから、子供の頃と感じ方が違うのか?」
と思うほど、感覚が違っていた。
しかし、それは間違いで、
「オカルトを途中で挟んだことが、昔の探偵小説を見返してみたい」
と感じたことと、
「小説を書いてみたい」
と感じたことであり、そこから今度は、
「探偵小説を読んでみたい」
と感じたことから、今度は、
「長編に挑戦したい」
と思わせたのだろう。
それが、自分の中の、
「時系列」
というもので、その時系列を今までははっきりと感じたことがなかったのに、どこか曖昧な感覚になったということで、今度は、
「自覚してみたい」
と感じるようになったのかも知れない。
それを思うと、今まで書いてきた小説とは別に、
「他のものを書いてみたい」
と感じたのは、
「長編を書きたいから」
というときとでは感覚が違っていた。
実際に、
「ミステリーはまだまだ書いてみたい」
と感じたのも事実であったが、それ以上に、
「オカルトとミステリーの調和を書きたい」
と思ったのだ。
どちも、
「時系列によって、書きたいと感じた小説のジャンル」
ということで、
「縦並び」
といってもいいのだが、
それはあくまでも、
「一本の線」
ということで、
「交わることのない平行線」
といってもよかった。
そういう意味で、
「小説の中でのジャンルの融合」
などという発想はまったくなかった。
もし考えたとしても、今までであれば、
「絶対にそんな発想は持たない」
と感じたはずだった。
「ジャンルの融合などというのは、小説に対しての冒涜になるのではないか?」
と感じたほどで、それは、
「自分が生きてきたことを否定する」
とまでいえる、
「時系列の冒涜だ」
といってもいいかも知れない。
ただ、
「オカルト」
と、
「奇妙な話」
というものを、
「似て非なるもの」
と考えていたという意識はあった。
だから、
「ジャンルの融合」
というものも、決して無理なことではなく、
「前衛的」
という意味で。ある意味、
「時代の最先端を行くということで、面白いものになるのではないか?」
と感じたのだった。
それが、
「陰謀論」
と呼ばれるものの発想であり、あくまでも、これは、川崎独自の発想であるが、
「昔から言われている伝説に対しての批評や解説のようなもの」
としての、
「預言書」
と呼ばれるものの解釈について書かれている小説や批評が、今でいう、
「陰謀論」
というものの、基礎になっているのではないか?
と思えるのだった。
だから、
「昔からあったかも知れないが、今のいわゆる陰謀論というのは、新しいジャンルではないか?」
と考えるのは、
「預言書を元に考えられたジャンルだ」
ということからである。
その預言書というのは、言わずと知れた、
「世紀末に起こるであろう」
ということを予言したといわれる、
「ノストラダムスの大予言」
である。
「四行詩」
というものの中に記された、
「読解困難」
と言われた預言を、
「いかに解明するか?」
ということで、言われ続けたものだった。
実際に、ノストラダムスは、
「四行詩」
というものに嵌め込んで、難しい言葉で分からないようにしているかというのは、
「地動説を唱えたガリレオのようになりたくない」