闇が作り出した幻影
「昭和の名探偵」
ということで、実に人気が高かった。
実際に、恐怖をあおるシーンであったり、謎解きやトリックの巧妙さが目を引いたのであった。
さらに、実際の作家の作法がすばらしく、読者の心をすっかりつかみ、
「長編であっても、一日で読み終わる」
というくらいに、集中したものだった。
それ以降、今度は別のものがブームになると、
「探偵小説が素晴らしい」
と思っているだけに、他に興味が移るということはなく、次第に、読書もしなくなったのが、中学時代だったのだ。
何しろ、
「高校受験」
というものが控えていただけに、それも無理もないことで、ただ、その時に、
「小説を書けるようになるといいだろうな」
という漠然とした気持ちはあった。
それが実現したのが、
「20年後」
ということで、時間はかかったが、今から思えば、その間の期間を、
「書けるようになってから継続している期間を越えようとしている」
というのは、
「自分にとっての継続」
というものが、
「どれほど素晴らしいことなのか?」
と思わせるに十分だということであろう。
「もう一度あの時の本を見返してみたい」
と考えたが、昔の本は、
「引っ越しの時の邪魔になる」
と思い、
「リサイクルショップ」
に売ってしまった。
結局は、二束三文でしか買ってくれなかったので、その時は、
「しまった」
と感じたので、しょうがないから、本屋で購入しようと考えた。
しかし、本屋は、昔と比べて完全に変わってしまっていた。
というのも、
「完全な時代の流行の本くらいしか置いていない」
ということだったのだ。
いくら、昔一世を風靡し、いまだに人気がある作家とはいえ、実際には、置いてなかった。
「取り寄せ」
というのも考え、店の人に聞くと、なんと信じられないことに、
「廃版になりました」
というではないか。
つまりは、
「古本屋でしか売っていない」
ということで、古本屋に行ってみると、偶然見つけた数冊という程度しか置いていないのだった。
それでも買ってきて読み直してみたが、
「ああ、やっぱり、昭和というのは、古き良き時代だ」
というのを感じさせられた。
自分も知らない、
「戦前戦後」
という時代には、ロマンがあり、それが、最初に読んだ時と、その感想も違った。
「想像力を掻き立てる」
ということがすべてであり、しかも、子供の頃に読んだものを、大人になってから読み返すというのだから、それだけ、
「幅が広がった読み方ができる」
ということだ。
しかも、
「子供の目から見ても、大人になってから読んでも、どちらも甲乙つかがたいくらいに素晴らしい」
と感じるのだ。
「いいものは時代が変わっても色あせない」
ということになるのだろう。
そういう意味で、本屋が、
「流行っているものしか置かない」
ということになっているのを見た時、それこそ、
「世も末だ」
といってもいいだろう。
「目の前のことだけにとらわれていれば、結局流行だけしか見ないようになって、同じところをグルグル繰り返すだけ」
というのは、
「今までの歴史が証明している」
といってもいいだろう。
そんな時代が結局は、
「どうなるものでもない」
ということで、どんどん、
「負のスパイラル」
というものに陥るだけであったのだ。
「世界を狭めている」
という考えは、
「宇宙論に似ているのかも知れない」
そして、この、
「宇宙論」
というものが、
「陰謀論」
というものの、原点として、川崎が考えるようになった一つであった。
「宇宙論」
という言い方は、実に漠然としたもので、厳密にはかなりいろいろな考えかたがあるということであった。
その宇宙論の一つとして、
「宇宙は広がり続けているのだが、あるところまで来ると、その限界から次第に小さくなっていく」
という考えであった、
他には、
「広がり続けているというのは同意見であるが、宇宙が小さくなるのではなく、バブル崩壊のように、はじけて消えてなくなる」
という発想もあった。
いわゆる、
「ビックバン」
と呼ばれるものであろう。
だが、小さくなるという発想を、川崎は信じていた。
どのように小さくなるのかということまでは想像がつかないが、どうしても、
「地球上で起こっていること」
からの発想になるというのも無理もないことであろう。
というのは、
「そもそも、人間の発想というのは、自分の経験からしか出てくるものではない」
と考えていた。
だから、
「異世界ファンタジー」
というのは、自分たちの世代からは発想のできないものだということで、
「若者が書くものだ」
と考えていたのだ。
つまり、川崎は、
「若い連中を、同じ人類だとは見ていない」
ということだ。
これは逆に、自分たちの前の世代が、
「自分たちを見ていた」
というその世代と同じだと思っているのだが、それは、自分たちが社会に出る頃に言われていた、
「新人類」
という言葉が思い出されるということである。
「新人類」
というのは、
「自分たちの頭では理解不能な人たちが出てきた」
ということで、たっぷりと皮肉を込めた言い方であった。
それだけ、今までの歴史を覆す人たちの存在を、昭和の末期でも、
「許せない」
という状態だったのだろう。
なんといっても、その頃の世の中には、
「神話」
と言われるものがたくさんあった。
それが今では、
「すべて迷信だった」
ということであれば、
「今と昔の考えが違う」
といっても、当たり前だということになるだろう。
というのは、神話の一つとしてあったものに、
「銀行は絶対につぶれない」
と言われていた。
しかし、バブル崩壊の時、
「最初に破綻したのは銀行だった」
ということで、いとも簡単に、神話が崩壊したのだ。
そして、そのバブル崩壊というのは、自分が就職した頃である、
「新人類」
と呼ばれていた時代よりも、だいぶ後のことであるということから、
「まだまだその時代は、昭和の考え方がそのまま受け継がれた時代だった」
ということである。
その時代というと、まだまだ、景気がよくなるという時代であり、バブル経済への入り口だったのだ。
「熱血根性」
などというのが、美しいといわれる時代で、
「今であれば、一発アウト」
といってもいい、
「しごき」
などというのがあった時代だ。
今では、
「しごき」
などと言っても、誰も分からないくらいであろうが、
「特訓」
と言えばどうだろう?
スポーツ根性漫画が流行った時期は、
「特訓を繰り返すことで、魔球なるものを開発し、スポーツ界にセンセーショナルな英雄が登場する」
というようなストーリーであるが、厳密には、そういう発想ではないといってもいい、
つまりは、
「苦しみの中で、それを通り越すと、その先に、幸せが待っている」
ということを、
「特訓」
ということで表現したのが、昭和の時代であった。
今でも、その精神は変わっていないのだろうが、
「何が悪いのか?」
ということになると、それは、