時間差の悲劇
をもらいに行った時も、ほとんど波風が立つようなことはなく、ほとんど二つ返事での了解だった。
それどころか、香織の両親とすれば、
「めでたい」
とまで言ってくれて、どうやら、香織の両親は、気さくで明るい性格の娘を、
「性格的には申し分ない」
と思っていたようだが、結婚相手となると別だということで、実際に、
「結婚適齢期」
と呼ばれる時期に、娘の方から、
「結婚したい」
と言って、相手を連れてきてくれるなど、想像もしていなかったのだ。
本当は、昔はよくあった。
「近所の面倒見の好きな奥さん」
ということで、近所の男女のキューピットのようなおばさんがいたであろうが、今の時代は、そうもいかない。
何しろ、
「コンプライアンス」
というものがあり、もし、相手が嫌がっているとすれば、いや、嫌がっていないとしても、余計な押し付けにつながるようなことは、
「パワハラ」
などと言われるのがオチであろう。
会社で上司が女性事務員に朝の挨拶の時によくしていた、
「今日もかわいいね」
という、
「ただの挨拶」
であったり、
「いつ頃結婚するの?」
などというのも、
「セクハラだ」
と言われ、訴えられても仕方がないくらいであった。
要するに、会社内において、
「相手が気持ちよく仕事ができない環境を、上司の一言で与えてしまえば、それは、完全に嫌がらせであり、ハラスメントになる」
ということであった。
「これじゃあ、会話にならないじゃないか」
ということであり、へたをすれば、
「上司が部下に、命令するというのも、何かの違反になりはしないか?」
と思ってしまう。
「会社では、組織的に行動することで、成果を上げる」
というために、部署があり、それを取りまとめるのが、上司の役目のはずなのに。
「会話ができない」
あるいは
「命令ができない」
ということで、仕事が成り立つわけはない。
「いや、相手が嫌な気分にならないような会話であれば、それでいいんだ」
ということであり、
「命令に従わなければいけない」
ということは部下も分かっていることであるが、部下だって人間、上司に不信感を抱いてしまえば、
「誰が、そんな上司のいうことなど聞くものか」
ということになるわけである。
だから、
「今までのような、年功序列での上司」
ということであれば、世間話さえできれば、上司として君臨できるということであろう。
しかし、今の時代の、
「コンプライアンス」
の時代ともなると、
「部下が気持ちよく仕事ができるように、そして、セクハラ、パワハラなどというのは、論外だ」
ということで、
「上司にふさわしい人間でなければ、いくら年齢を重ねたとしても、会社は認めてくれない」
ということになる。
バブル崩壊後の、
「神話の崩壊」
というものが、今の時代を作っているというわけで。それは、
「仕事とは関係のない男女間」
においてもいえることであろう。
いや、
「男女間の方がもっとシビアではないだろうか」
会社であれば、最悪、
「会社を辞めて、転職すればいい」
といえる。
昭和までのように、
「終身雇用」
というわけではなく、
「実力があれば、どんどんいい会社に」
ということができるからだ。
しかし、実際には、
「実力社会」
とは言われるが、最初から、
「自分は上を目指す」
という覚悟を持っていて、それこそ、
「上を目指すためには、少々理不尽なことでもするという気概がないと、いくら実力社会といっても、かなうわけはない」
中途半端な気持ちで、
「どこかいいところがあれば、引き抜いてくれないかな?」
という他力本願であれば、よほど、大きな実績を残し、世間からも、人間的に、
「この人は信じられる」
と思われない限りは、そう簡単にいかないだろう。
むしろ、
「会社に多大な功績を残した」
という人間が、
「いいところがあれば、そちらに移りたい」
と思っていたとすれば、そんな人間が、他力本願などということは、考えられないことではないだだろうか?
少なくとも、
「積極的に相手に売り込む」
つまり、それくらい、自分のことをしっかりと理解していることが必要で、功績を遺すことができる人間であれば、ちゃんと自分のことを分かっているはずであろう。
そう考えると、
「実力社会」
というのは、本当に一部の人間にだけいえることで、いまだに日本は、
「終身雇用」
という体制なのだ。
リストラというのが横行していて、それを悪いことのようなイメージを持たせられない」
ということから便宜的に
「実力主義の社会だ」
ということでの、
「詭弁なのだ」
ということになるのだろう。
それが、今の時代であり、昭和時代から考えると、
「今の会社社会は、詭弁で形づけられた社会なのではないか?」
といえるような気がする。
実際には、
「セクハラ」
「パワハラ」
というものが悪いことであり、社会として、
「コンプライアンスを守らなければいけない」
ということで、あたかも、
「社員を守る」
ということのように言われているが、本当にそういう社会体制が自然にできているのであれば、そもそも、
「ハラスメント」
であったり、
「コンプライアンス」
などという言葉を使って、社会を戒める必要などないのだ。
それをしないといけないということは、
「口でやかましく言わないと分からない」
ということになるのか。
それでは、子供と同じではないか。
つまり、
「大人である、政府が、子供の社会を教育する」
という体制ができていて、
「大人である政府は、大人としての悪い部分だけを表に出し、何も分からない子供を洗脳している」
というのが、今の社会ではないかと思うのだ。
つまり、社会をスムーズに運用するには、
「いかに、政府の力で、社会を洗脳するか?」
ということになるのだ。
だから、
「ハラスメント」
であったり、
「コンプライアンス」
という言葉は、
「洗脳用語」
ということであり、洗脳するためには、自分たちが表向きだけは、どれだけ正しいということを見せつけるかが必要だ。
ということなのに、
「実際には、今に限ったことではないが、政府というのが、それだけひどいことをしていたのか?」
ということである。
それでも、一度洗脳されると、いくら政府が、能無しであっても、洗脳が解けるわけではない。
それだけ、政府のひどさに、感覚がマヒしてしまっているほど、ひどい状態であり、洗脳というものの力は、
「まるで催眠術のように、一度掛けてしまうと、そう簡単には解けないものだ」
ということになるのではないだろうか?
それが、社会と政府の構造であり、これが、
「平和ボケからきている」
ともいえるだろう。
なんといっても、
「大日本帝国時代」
というのは、
「絶対君主」
といってもいい天皇がいて、国民全員が、
「天皇は神様で、天皇のいうことを聞いていれば、幸せになれる」
ということで、そのためには、
「どんな苦労も惜しまない」
ということであった。
そして、