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時間差の悲劇

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「苦労があればこその達成感」
 ということで、
「それが当たり前のことだ」
 と信じて疑わなかったのだ。
 しかし、結果として、
「戦争に敗れてしまった」
 しかも、戦争の大義名分が、
「欧米列強に植民地化されているアジアを開放し、日本を中心に、東アジアに、新しい秩序を建設する」
 というスローガンだった。
 実に立派なものであり、それを、天皇を中心とした、国民一人一人が認識し、戦争を完遂し、勝利を目指すというものである。
 ただ、実際には、
「国土のほとんどは焦土となり、無条件降伏をした」
 ということで、日本人の精神は崩壊したといってもいいだろう。
 そこで、占領軍からの、
「勝利の理論」
 というもので、やつらのいう、
「民主主義を押し付けられた」
 その時の日本は、それまでの、
「天皇を中心とした君主国」
 というものが崩壊し、いきなり、
「自由、平等。博愛」
 という民主主義を押し付けられたので、混乱は大きい。
 それまでは、天皇のいうことを聞いていればよく、目指す道は見えていた。
 しかし、今度は、
「自由」
「平等」
 と言われても、聞こえはいいが、
「武器も持たずに、野に放たれた」
 というだけのことになってしまうということである。
 しかも、
「戦争放棄」
「平和国家」
 というものをいきなり押し付けられるわけで、
「いい悪い」
 というのは別にして、混乱は免れないということであった。
 つまりは、
「平和な時代ではあるが、果たして、それが、いい時代」
 と言い切れるのだろうか?
 なんといっても、
「自由」
 と
「平等」
 と言われるが、
「その両方が、本当に並び立つというものであろうか?」
 ということになるのである。
 そもそも、
「自由」
 と、
「平等」
 はありえない。
「人間というのは、生まれながらにして平等だ」
 という人もいるが、実際にそんなバカなことはない。
「いつ、どこで、誰のところに生まれてくる」
 ということを選べないわけで、
「生まれてきたところが、金持ちか、貧乏人のところか?」
 ということであったり、
「平和な国であるか。戦争をしている国であるか」
 ということも選べない。
 へたをすると、生まれてきて、すぐに死んでしまうことになるかも知れないといえるだろう。
 じゃ、死ななかったからといって幸せなのだろうか?
 絶えず、死の恐怖に怯えたり、食べるものもなく、
「このままだと餓死してしまう」
 ということが分かり切っているのに、それでも、生き続けなければいけないというのは、どういうことだというのか?
 それでも、
「死んではいけない」
 というのは、それこそ、
「死を選ぶ」
 という自由がないということになる。
 そもそも、
「自由というくせに、死を選べない」
 というのは、正しいのだろうか?
「人間が生まれながらにして平等ではない」
 というのは、
「自由」
 という発想から生まれたものではないのだろうか。
「自由経済」
「自由貿易」
 という観点から、平等というものは、あくまでも二の次ということになり、
「自由」
 という耳障りのいい言葉の裏には、
「平等」
 というものを脅かすものへの言い訳として使っているとしか思えない。
 物事には、どんないいことであっても、デメリットというものがあり、メリットと比較して、デメリットの方が大きければ、悪いことであり、メリットの方が大きければいいことだとして認識されるのであろう。
 そう考えると、
「自由」
 というもののデメリットとしては、明らかに、
「平等を脅かすもの」
 ということで、
「差別を生み出す」
 ということが、問題だといえるだろう。
 だから、
「見主主義の弊害」
 というものは、
「差別の誘発」
 ということになる。
 それが、
「人種差別」
 ということであったり、
「貧富の差」
 というものを生み出すのだ。
 だが、
「努力して実力さえつければ、勝者になれる」
 という理屈もある。
 しかし、今の社会が、
「努力をすれば、皆勝者になれる」
 というわけではない。
 社会が大きければ大きいほど、その傾向は大きく、もっといえば、
「勝者がいれば敗者がいる」
 ということで、
「敗者は、勝者のために存在している」
 ということになると、差別的な考えさえもなくなり、どんなに、
「差別問題を解決しようとしたとしても、民主主義に洗脳された社会」
 ということであれば、
「永遠に解決できるものではない」
 ということになるであろう。
 それを考えて、
「今の時代の、今の体制」
 を冷静に見ると、
「政府が国民を洗脳し、一つの方向に導く」
 というのが、
「大日本帝国の失敗だった」
 という教育を受けてきて、
「国民は、自由であり、一人一人の自由が尊重され、それが、国家においての、権利が保障されている」
 というきれいごとにつながるのだ。
 ということは、
「何か、国家を中心にして、それこそ、挙国一致ということでないと乗り切れない国難にぶつかった時、一致団結ということができない」
 ということになるのだ。
「本来であれば、国家が国難を乗り切るだけの政策を打ち出し、国民の権利を一部制限してでも、国家を救う」
 ということにならなければいけないのに、
「今の日本は、その体制を作るすべを、まず、国家が分かっていない」
 といえる。
 それどころか、
「自分たちの利益と保身を最優先に考えるので、その政策は後手後手に回ってしまい。その結果、国民から信用されず、バカにされる政府」
 ということになるのだ。
 それでも、
「他にできる人がいない」
 ということで、
「このソーリでは、先行きが立たない」
 ということが分かっているのに、
「政府を変える」
 ということができないのだった。
 今までどれだけ、
「ソーリが変われば、少しはましな世の中になる」
 と思い期待したことか。
 何も、飛躍的に素晴らしい国にしてほしいなどという贅沢を言っているわけではない。本当であれば、素晴らしい国にしてほしいと望むのは当たり前のことだが、それを、
「贅沢だ」
 とまで思い、そこまで譲歩しているにも関わらず、
「少しはマシな」
 と、最低限の譲歩にすら足元にも及ばないといわれる政府なのだから、本当にどうしようもないといってもいいだろう。
 当然、国民のほぼ全員はバカにしていることだろう。
「政府を支持している」
 と言っている連中だって、
「今の政府で満足している」
 という人がどれだけいるだろう。
「政権交代して、野党に政治をやらせれば、それこそ、亡国になってしまう」
 という恐怖から、
「仕方がないので、今の政府を応援するしかない」
 ということからの、与党指示でしかないということであろう。
 それだけ、今の我が国は、ひどい状態であり、
「国家として、本当に信じていいのか?」
 ということになるのだろう。
「自由」
 というものを、取ったことで、
「平等」
 というものが犠牲になったというのが、今の民主主義で、その欠点として、
「少数派の意見が黙殺される」
 ということと、
「差別が横行してしまう」
作品名:時間差の悲劇 作家名:森本晃次