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時間差の悲劇

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 ということをしてきた。
 それでも、他の教科も、成績は悪くても、
「一般教養」
 という程度のものがないと難しいということで、
「数学を特化させながら、他の学問も、おろそかにはできない」
 ということで、それなりのプレッシャーは、普通に大学受験をするのと、基本は変わりのないものであった。
 しかし、いくら好きで成績が特化しているからと言って、そのプレッシャーは大きなものだ。
 大学の試験は、いくつもある教科で、成績のいいもの悪いものとそれぞれあるだろうが、最終的に、
「総合点で人よりも勝っていれば、順位があがり。それが合格ラインに達しているどうか?」
 というのが問題になるわけである。
 つまり、
「苦手な科目を、得意な科目で補う」
 ということができるのだ。
 しかし、沢井の場合は、
「数学に特化している」
 ということなので、すべては、数学の成績で決まってくるのだ。
 確かに、他の科目もまったく無視するというわけにもいかないが、だからと言って。
「数学の成績が特化というだけあって、すべてだといってもいい」
 ということであるだけに、他の生徒のように、
「他の科目が補ってくれるわけではない」
 ということだ。
 つまりは、他の科目は、
「参考的に行うというだけで、もし、数学で同じ点数だった場合に考慮される材料の一つだ」
 ということになるだけであった。
 だから、大学に入ると、
「高校時代から、特化した勉強をしてきた」
 ということで、それほど、高校時代と変わったとは思えなかった。
 だから、
「そんな大学に、何を必死になって入ろうとしたんだろうか?」
 とすら思うほどで、
「大学は、専門的な学問を研究するところだ」
 ということから、
「高校までは、学ぶところであり、大学に入ると、自主性によって研究するところだ」
 と思うようになった。
 中には、
「専門的な学問」
 といっても、
「研究よりも、学ぶということが強いものもある」
 といえるかも知れないが、少なくとも数学などの理数系は、
「これからの社会を新しく変えていくための道しるべ」
 ということで、
「研究というものが不可欠」
 と言われている。
 だから、
「理数系の学部に入学すれば、文系と違って、卒業しても、大学院などで、大学に残る人が多い」
 と言われているのであった。
 逆にいえば、
「理数系の大学を出ても、大企業で、研究所などを持っているところでないと、なかなか就職も難しい」
 と言われていて、
「理数系への進学数が少ない」
 という人もいるが、その原因は、やはり、
「就職率」
 ということになるのだろう。
 そういえば、昭和の昔であれば、
「教育ママ」
 などということを言われていた時代に、
「いい高校に入って、いい大学に入って、いい会社に就職する」
 というのが、
「一番の幸せだ」
 と言われていたことがあった。
 それは、もちろん、会社というものが、
「終身雇用」
 というものであり、
「年功序列」
 などと言われていたことが大きかったのだろう。
 会社に入りさえすれば、よほどのことがないとつぶれないし、自分から辞めない限りは、「年齢に達すれば、出世する」
 という型にはまった社会だったといってもいいだろう。
 そもそも、昭和の、
「学歴社会」
 というものがピークの時は、
「詰め込み教育」
 などと言われてきた。
 そもそも、戦後の時代に、教育も行き届いていないということで、日本人の平均学力は、ひどいものだった。
 実際に、
「復興の際に、物資などは輸入できたのだが、それを使っての加工などを行うに際して、学力が伴っていない」
 ということから、政府は危機を感じることになっていた。
 そこで、
「先進国並みの学力向上」
 ということで、
「経済復興」
 というものを並行して、
「国民の学力の底上げ」
 ということから、
「詰め込み教育」
 であったり、企業としても、
「優秀な人材の取り合い」
 ということから、
「いい企業と呼ばれるようになるには、いい大学からの優秀な人材を引っ張る」
 ということになり、大学側も、
「成績のいい高校生を入学させる」
 ということから、高校も、
「進学に力を入れる」
 ということで、
「落ちこぼれは、放っておく」
 というような、いわゆる。
「腐ったミカンの法則」
 と言われる社会になってしまったのだった。
 それが、
「落ちこぼれを作り」
 さらには、
「中退というものを呼ぶ」
 ということで、それらの人間を、
「不良」
 と呼び、
「チンピラ」
 であったり、
「反社会組織の予備軍」
 と言われるようになってきた時代だったのだ。
 ある程度、復興が収まり、今度は、企業の方が、
「バブルの崩壊」
 というものを迎えると、それまでの、
「学歴社会が通用しなくなってきた」
 というのも、
「いい大学を出て、いい会社に入ったとしても、その会社がいきなりつぶれることになる時代だ」
 ということで、
「いい会社」
 という定義が崩れるということになったのだ。
 そうなると、
「学歴社会」
 というのは崩壊していく。
 そうなると、
「落ちこぼれ問題」
 と一種にするわけにはいかなくなり、
「落ちこぼれ解消」
 ということから、それまでの、
「詰め込み教育」
 というものから、
「ゆとり教育」
 ということの方に舵を切ることになったのだ。
 つまりは、
「ゆとり教育」
 というのは、
「学生や先生のことを考えて」
 ということではなく、それまでの、
「学歴社会」
 というものが崩壊したからという、
「社会の変化に対しての大人側の都合」
 ということからであった。
 しかも、それが、今度は、
「ゆとりでは、年間のカリキュラムが実行できない」
 ということで、今度は、
「また以前のような形に戻す」
 という形にはなったが、その形は若干ではあるが、
「新たな形になっている」
 ということであった。
 しかし、実際に新たな形ということではあるが、大きな社会問題を残してはいるのであった。
 その問題というのは、
「教師というものが、ブラックな職業だ」
 ということになったのである。
 今のような、
「コンプライアンス」
 というものを大切にしないといけないといわれているのに、
「学校の先生」
 であったり、
「医療従事者や介護関係」
 などは、人手不足ということもあり、どうしても、ブラック企業になってしまうのであった。
 それだけ、社会というものが矛盾した世の中になってきたということで。
「〇〇年問題」
 と言われる、
「業界における人手不足」
 という問題から、実に住みにくい世の中になってきたといえるだろう。
 そんな世の中で、
「陰謀論」
 と呼ばれるものが、いくつか、まるで、
「都市伝説」
 であるかのように、言われることが多かったりする。
「日本に起こっている地震というのは、どこかの秘密結社による、人工地震だ」
 ということであったり、
 かつての、
「世界的なパンデミック」
 の際に行われた、
「ワクチン接種」
 というものに関しても、
「何かの陰謀だ」
 というものである。
 正直、
作品名:時間差の悲劇 作家名:森本晃次