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時間差の悲劇

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「自信過剰であるはずはない」
 と感じるようになったことだろう。
 ただ、それでも、臆病気質は、そう簡単に治るわけではない。
 もっとも、
「臆病ではない」
 と考えるということは、少なくとも、
「ちょっと前まで。自分は臆病だったんだ」
 と思うことで、
「大人になると、臆病ではなくなる」
 という考えが、今度は、
「大人になること自体に、不安を感じさせる」
 という、おかしな現象を生むのだった。
 それを、
「負のスパイラル」
 のようなものだということを分かってはいるが、それを感じたくないと思うことから、その原因を、
「大人になること」
 ということで一括りにするということにしてしまうのであった。
「負のスパイラル」
 というものは、大人になるからということも一つの原因なのかも知れないが、他にもいろいろ考えられる。
 しかし、人間というのは、
「一つのことで結論が出てしまうと、他に考えられなくなってしまう」
 それは、
「それだけ、自分というものを信じようと考えてしまうからではないだろうか?」
 と考えてしまうのだった。
 気持ちに余裕さえあれば、もっと幅の広い考え方ができて、限られた世界でだけ考えられないということはないのだろうが、逆に、
「限りがない」
 と思ってしまうことが、恐怖につながると考えると、
「これが本当の、負のスパイラルというものを生むのではないか?」
 と考えると、
「ものの考え方というものに、限界のあるなしは関係ないのかも知れない」
 と思えてくるのだ。
 しかし、実際には、どうしても、
「限界のあるなし」
 というものを考えてしまう。
 そう思ってしまうと、その先をどうしていいのか分からなくなり、それが分かってくるというのが、
「大人になる」
 ということの証明となるような気がしてくることで、
「大人になりたくない」
 という気持ちが心のどこかにトラウマとなって残ってしまうのだろう。
 それは、沢井だけではなく、誰にでもいえることではないのだろうか。
 沢井は、高校生になって、勉強で挫折することになった。
「勉強についていけない」
 ということになったのだ。
 要するに、
「大丈夫だ」
 と思っていた、
「無理をしてでも入学試験にパスした」
 ということが、自信となったはずなのに、実際に進学した高校のレベルは、確かに中学の進路指導の先生が分析したように、
「五分五分だった」
 ということである、
 それは、その進路指導の基準というものが、思っていた以上に洗練されていたといってもいいだろう。
「無理して受験に合格しても、それだけではない」
 ということだった。
 確かに成績からしても、ギリギリではあったが、
「それ以上に、相手が求めている教育方針に、生徒がついていけない」
 ということが問題だったのだ。
 高校ともなると、義務教育ではないわけで、高校とすれば、経営の問題も出てくるわけで、
「大学受験に実績がある」
 ということであったり、
「スポーツや、芸能関係で、一躍有名になるという名門校」
 ということであれば、当然、入学希望数も多くなり、さらに、
「洗練された生徒が入学してくる」
 ということから、
「大学の進学率」
 であったり、
「スポーツで優秀な生徒」
「芸能界入りして、メディアに引っ張りだこ」
 というような生徒が活躍してくれれば、学校の経営もうまくいくということになるだろう。
 しかし、沢井が入学した学校は、
「スポーツや芸能関係」
 では、あまりパットしない。
 つまりは、
「進学校」
 ということで有名ということで、
「大学への進学率」
 というものがすべてだといってもいいだろう。
 だから、学校では、スパルタ教育というものを行っている。
 完全に、
「成績のいい人をひいきする」
 という学校で、
「底辺は平気で見捨てていく」
 といってもいいだろう。
 だから、
「ついてこれない人は、どんどん自主退学していく」
 というわけで、学校とすれば、
「そんなことも分かっていてやっている」
 ということなので、タチが悪いといってもいいだろう。
 成績だけでいえば、
「自主退学一歩手前」
 というくらいであった。
 しかし、沢井の強みは、
「他の成績は最低ランク」
 ということであったが、
「一つの教科だけは、突出していた」
 ということであった。
 それが、数学だったのだ。
 他の試験では、ほとんどが赤点だったが、数学だけは、学年でも、いつもトップテンには入っていた。
 しかも、成績がいいだけではなく、彼には、
「数学に対しての姿勢がよかった」
 ということであった。
「好きなものこそ上手なれ」
 という言葉があるが、数学に対して、真摯に勉強している姿は、先生にも、一目置かれていた。
 もっとも、そのことに数学の先生が気づかなければ、
「とっくの昔に、自主退学していただろう」
 と言われていたのだ。
 確かに。本人は、
「自主退学などしたくない」
 という思いがあった。
 なんといっても、無理をしてでも入った学校。親の方も、その自慢を近所の人にしていたので、今になって、
「自主退学しました」
 といえるわけもない。
 そうなると、
「親の顔に泥を塗る」
 ということになるわけで、子供の頃から、
「親の顔に泥を塗るようなことはしないでね」
 と言われて育ったことで、その言葉が、トラウマでありながら、最終的な決定に大きな影響を与えることで、
「早まらなくてよかった」
 といってもいいだろう。
 それにしても、
「親の顔に泥を塗る」
 というのは、どういうことなんだ?
 今の時代のように、
「コンプライアンス」
 であったり、
「表現としてのマナー」
 のようなものが言われるようになると、
「言葉一つで一人の人間をつぶす」
 などということは平気であるんだと思わせるのであった。
 だから、まだ大人になりきれていない沢井にとって、
「親の顔に泥」
 という言葉は、
「本当であれば、口にしてはいけないタブーだ」
 と思っていた。
 しかし、子供の頃は、よくわからなかったということもあり、それを言われても、違和感はあったが、悪いことだとは思わなかったのだ。
 それだけ、子供というのは、
「善悪の区別がつかない」
 といってもいいだろう。

                 陰謀論

 そんな沢井が、大学にまで行けたのは、その大学が、
「どれか一つでも特化した学問があれば。その成績だけで、推薦してもらえる」
 という制度を取っていたからだ。
 そもそも大学というのは、総合大学であっても、
「その大学の色」
 ということで、
「この学問だったら、この大学を目指す」
 ということで、高校生が目指す大学を決定する指標のようなものがあるのだった。
 その例として、
「その学会では、有名な教授がいて。その先生の教えを請いたい」
 ということで、志望校を決定する人もいる。
 それだけ、大学というところは高校とは違って、
「専門の学問に特化したところだ」
 といってもいいだろう。
 そういう意味で、
「数学に特化している」
 という沢井は、
「数学の成績を高校では伸ばす」
作品名:時間差の悲劇 作家名:森本晃次