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時間差の悲劇

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 という意識がある中で、親を中心をした大人は、まだまだ小学生の頃までと、まったく同じであるかのような接し方をしてくるのだから、当然いら立ちが募ってくるというものであった。
 沢井は、そんな中学時代には、
「まともに、思春期を味わった」
 と思っている。
 恥ずかしくて言えないような、行動をしたり、妄想を抱いたり。
 もっといえば、
「抱いた妄想で、気分が高ぶったことで、行ってしまったことを、誰に言えるというのか?」
 という思いであった。
「これは、自分だけではなく、誰もがしていることだ」
 とは思うのだが、それを自分から明かすことはできない。
 恥ずかしいという思いがあるわけで、
「もし、皆もしていることであっても、自分から言い出しっぺになってしまうと、場合によっては、掛けられたはしごを取り外されてしまったかのように感じるのであった。
 そうなると、おだてに乗って上がったはいいが、そのまま、
「忘れられた」
 あるいは、
「見捨てられる」
 ということになり、それこそ、
「人身御供」
 になってしまったかのようになるということであった。
 この頃から、
「人に対して、急に何も言えなくなったのは」
 と感じていた。
 その最たる例というものが、
「人の顔が覚えられない」
 ということであった。
 実際に、覚えられないというのも事実なのかも知れない。
「覚える気がない」
 ということなのか、
「覚えれるはずなのに、そのコツというものを、自分で習得できていないからなのか?」
 ということなのであろうが、そもそも、以前、人込みの中で、親と待ち合わせをした時、自分としては自信があって、自分から声をかけたつもりだったが、その人はまったくの別人で、
「君は?」
 と言われ、それにこたえられずに、走って逃げてしまったということがあったのだ。
「すみません。人違いでした」
 と一言いえばそれで済むことなのに、それをいうことができなかったということで、その時まわりにいた人がどんな目で自分を見ていたのかということをまったく考えもしなかった。
 しかし、冷静になってみると、
「確認していなかったのが悪かったのだが、あの時のまわりの顔が、軽蔑の眼だったとしか思えない自分が怖かったのだ」
 確認しなかった自分への自己嫌悪もあれば、そこまでの余裕がなかったということが招いてしまった、自分への疑心暗鬼、そして、
「いざという時に、何もできないというのが、自分なんだ」
 ということで、完全に、対人関係に対して恐怖心を抱いてしまっていたのだった。
 しかし、大学に入ると、勝手にまわりから挨拶をしてくれる。
 それがうれしくて、
「連れ」
 というものだけでもいいから、たくさんできればいいと感じるようになったのだ。
 だが、その
「連れ」
 というものが、想像以上に簡単に増えていくと、欲が出てくるというのか、
「相談ができたり、他愛もない話ができるという相手がほしい」
 と感じるようになってきた。
 その時、それまで挨拶をしている人を友達と思っていたのが、
「彼らはただの連れ」
 と感じるようになり、今自分がほしいと思っているのが、
「本当の友達なんだ」
 と感じるようになったのであった。
 実際に、
「本当の友達というのは、できるまでに結構時間がかかるだろうな」
 と思っていた。
 それは、
「人の顔が覚えられないくらいに恥ずかしい思いをした時の記憶が、トラウマとして残っている」
 ということからだった。
 それから、人と待ち合わせても、
「間違えたらどうしよう」
 ということから、相手に声が掛けられなくなってしまった。
「俺を見つけてくれよな」
 と中学時代の友達にはそういって見つけてもらっていたが、高校生になると、
「そんなこともいえないよな」
 と恐縮してしまった。
 それだけ、
「高校生になると、大人になった」
 といってもよく、
「大人になったくせに、相手に自分を見つけてもらわなければいけない」
 というのは、恥ずかしいことだと感じたのだった。
 だから、中学生のころまでは、
「小学生の延長」
 ということで、
「友達も繰り上がり」
 ということになっていたが、高校生になると、そうはいかない。
 特に、
「もう、義務教育ではないんだ」
 と思うと、余計にそう感じるのだ。
 しかし、高校生というのはおかしなもので、大人からすれば、
「高校くらい出ていないと、社会人として認められない」
 というおかしな風潮があるではないか。
 しかし、高校生は義務教育ではない。義務教育というのであれば、
「中学を卒業した時点で、大人として立派にやっていける」
 というだけの教養を身に着けているものだといえるのではないだろうか。
 しかし、実際には、ほとんどの人が高校生になる。
 ただ、中には中退していくという人も少なくはない。それは、
「高校に入学したはいいが、入学試験の際に、無理をした」
 という場合に多くみられる。
 それは、中学時代には、トップクラスの成績だったことで、学校側と受験の相談をした時、いわゆる、
「三者面談」
 と呼ばれる時であるが、
「志望校には、五分五分の成績だが、一ランク落とせば、楽に入学できる」
 ということで、本来であれば、
「ランクを落として受験」
 ということであれば問題なかったのだが、無理をして志望校を受験したとして、最悪の場合は、不合格ということになるのだろうが、もし、合格できたからといって、ホッと胸をなでおろし、
「よかったよかった」
 とは単純にはいかないものである。
 なぜなら、
「受験というものが、ゴールではないからだ」
 ということだからである。
「入試というものは、あくまでも、入学試験。つまりは、本当の競争は、入学してから始まることになるのだ。
 つまり、入学は、
「スタートラインに立った」
 というだけのことである。
 それを理解できずに、入学してから、
「よかった、入学できた」
 と思って油断していると、足元を掬われるということになる。
 というのは、
「それまで、中学では、トップクラスの成績だったかも知れないが、それは、あくまでも、皆それぞれのレベルの違いがあっての中のトップクラスだったから」
 ということであり、今度は、義務教育というものが終わり、入学した学校では、
「ふるいにかけられた連中が入学してくる」
 ということで、
「中学までとは、平均レベルが明らかに違っている」
 ということであった。
 もちろん、それは百も承知で、自分としては、
「その中でもまれることを悪いことだとは思っていない」
 のだ。
 それは、きっと、
「五分五分と言われ、ランクを下げろとまで言われ、それを無視して試験を受け、見事合格した」
 ということから、自分に自信を持っても無理もないということであろう。
 だから、
「俺はやったんだ」
 という自信が、
「ランクが上がっても、自分なら大丈夫だ」
 という思いと、逆にそれまでの自分が、
「臆病だっただけではないか?」
 と思うと、
 それまでの臆病というものを、自分でどうすることもできなかったと考えると、自信がついたと思っている自分は、
作品名:時間差の悲劇 作家名:森本晃次