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時間差の悲劇

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 ということがデメリットの民主主義であるが、このデメリットを聞いた時点で、
「これに勝るだけのメリットというのが本当にあるのだろうか?」
 ということであり、その解決策として考えられた。
「共産主義」
 というものは、当初は、
「理想の社会を作る」
 ということで、世界でも、
「その勢力を二分した」
 という時代があったが、実際には、
「そんな時代はありえない」
 ということになり、今では数か国しか、共産圏の国はなくなってしまった。
 それは、
「民主主義が勝った」
 というわけではなく、
「共産主義」
 というものの、
「デメリットが大きかった」
 ということになるのであった。
「共産主義」
 というのは、まず、
「差別をなくす」
 ということで、
「自由競争」
 というものを撤廃した。
 つまりは、会社というのは、民間での自由競争ではなく、そのほとんどが国営によるもので、給料も皆同じ、もちろん、役職によって違うのは当たり前だが、そもそも会社間での競争がないのだから、同じ役職であれば、皆給料は同じということだ。
 ただ、
「自由競争のメリット」
 ということで、
「働けば働くほど儲かる」
 ということで、やる気のあるものが実力を発揮するということで、自由競争からは、発展というものが望めるのだ。
 しかし、共産主義においては、
「一生懸命にやっても、手を抜いても、同じ役職であれば、給料は同じ」
 ということで、
「誰が一生懸命になってやるものか」
 ということになる。
 しかも、それでも、軍事面などで、対外的に対抗しないといけないのであれば、
「一生懸命にしないと負けてしまう」
 ということになる。
 となると、どうすればいいのかということになるわけだが、そこで出てくるのは、
「恐怖政治」
 であった。
 民主主義であれば、
「一生懸命にやれば、給料が上がる」
 というものであったが、共産圏においては、
「一生懸命にやらなければ、命が危ない」
 ということで、実際に、彼らの政府というのは、
「反対勢力に対しての、粛清」
 というものから成り立っているのだ。
 実際に、共産圏の国というと、社会主義。共産主義という国ができてから、ほとんど漏れのないくらいに、それらの国では、
「大規模な粛清政策」
 というのが行われてきたのであった。
 何においても、
「命に関わる」
 というデメリットが、いつまでも許されるわけはない。
 実際に、社会主義というものが、世界に出てきて、それを主導してきた国が崩壊するまでに、
「100年もなかった」
 というのが、事実であった。
 つまり、民主国家というのは。
「社会主義国に勝った」
 というわけでも、
「民主主義が正しかった」
 というわけでもなく、そもそも、
「民主主義のデメリットを解消する理想の社会的主義」
 ということで、発展してきた共産主義というものは、
「国民を命に関わる」
 ということでしばりつけてきたことへの反発から、
「滅ぶして滅んだ」
 ということになるのであろう。

                 好事魔多し

 二宮と香織は、それまで順風満帆な毎日を送ってきたが、
「好事魔多し」
 という言葉のように、ちょっと歯車が狂ってくると、ろくなことがないといわれることを思い出させるような、いやな予感に包まれる時期に入っていた。
 結婚に対しても、何ら障害がなく、あとは、
「二人で、愛を育んでいくだけ」
 ということであったが、
「幸せの絶頂だ」
 と思っていた二人に、
「まさか、そんなことが起こるなんて」
 という事態が迫っているなどということは、思ってもいなかった。
 ただ、
「こんなに幸せでいいのかな?」
 ということから、急に不安に陥るということは結構あることであり、
「幸せの絶頂って、怖いことなのかも知れない」
 と思う人もいることだろう。
 有頂天になっていると、ちょっとしたことでも、
「こんなことが起こっていいのか?」
 というような不安に襲われることがある。
 しかし、それは、
「ただ疑心暗鬼にかかっているだけだ」
 という人もいれば、
「それこそ、マリッジブルーと呼ばれるようなものかも知れないぞ」
 ということで、
「これまで、なかなか手が届かないと思っていた幸せが、急に手が届く範囲にまでくるというようになると、それまで感じたことのない不安に、急に襲われるようになる」
 ということはえてしてあるものだ。
 特に。結婚というものは、その最たる例といってもいいだろう。
「結婚というのは、人生の墓場だ」
 という人もいる。
 それまで、自由に選べるはずの結婚相手が、一度結婚してしまうと、
「他の人を好きになってはいけない」
 という、
「貞操」
 という意味でも、
「倫理的」
 という意味でも許されないことである。
 要するに、
「民主主義の基本」
 でもあり、それまで、
「皆に求められたもの」
 ということで当たり前だと思っていた自由が制限されるということになるのだ。
 確かに、
「好きになって、その人と一緒になれる」
 というのだから、
「これ以上の幸せはない」
 といってもいいだろう。
 しかし、
「結婚なんて、何のためにしないといけないのか?」
 ということを考えると、昔であれば、
「子供を産むことで、家を存続させる」
 というれっきとした理由があった。
 それも、
「いい悪いというのは別にして」
 ということであるが、
「結婚というものが、そのまま家の存続ということにつながり、昔であれば、男子が産めない奥さんは、離縁されても仕方がない」
 と言われていた。
 それこそ、
「結婚」
 というのは、
「子供を作る」
 ということのための
「相手を選ぶ儀式」
 ということになるのだ。
 そんな風潮は、
「昭和の時代くらいまで続いただろうか」
 それこそ、
「家長制度」
 ということで、
「一家の大黒柱である父親が一番偉い」
 という風潮である。
 しかし、それも、
「大黒柱が一人働いて、一家を養い。奥さんは専業主婦で家を守る」
 ということが当たり前の神話のように言われてきた時代が、昭和が終わってから、
「バブル経済の崩壊」
 ということで、経済の大混乱から、
「奥さんも働きに出ないといけない」
 ということになり、一気に、
「家長制度」
 というのも、崩壊したのである。
 だから、そうなると、そもそもの、
「結婚」
 というものの存在意義というものも、
「怪しいものだ」
 ということになるのだ。
 だから、
「いやなら離婚すればいい」
 とばかりに、スピード離婚ということでの、
「成田離婚」
 というものが出てきたのであった。
 ただ、二人の間、つまり、
「二宮と香織の間」
 にはそんなものはなかった。
 なぜかというと、最初に香織が、
「あなたと付き合っていく自信がない」
 と言ったではないか。
 というのは、彼女としては、
「自分が自信がない」
 ということを、相手に明かして、相手にも、
「自分の悩みを分かってもらいたい」
 もっといえば、
「共有してほしい」
 と考えていたのだろう。
作品名:時間差の悲劇 作家名:森本晃次