小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

交わる平行線

INDEX|9ページ/16ページ|

次のページ前のページ
 

「まあまあ、大事に至らなかったんだから、今回は許してあげよう」
 ということになるのだろうが、実際には、警察とすれば、
「初めてではない」
 ということになるが、迷惑をかけられたはずの一般市民が、
「まあまあ」
 というのだから、警察がそれ以上何かをするというわけにもいかないのだった。
 だから、
「オオカミ少年」
 としての、鳴海青年のやっていることは、
「最悪の性癖」
 ということなのであろうが、実際には犯罪ではないということで、
「扱い方としては、これほど厄介なやつはいない」
 といえるだろう。
 実際にやっていることは、「子供のいたずらなのだが、そのために振り回されるのはたまったものではない。
「そんなやつが、オオカミ少年を卒業させるには、一度、制裁を加えるしかないんだけどな」
 ということになるだろう。
 それこそ、
「ギリギリのところにいる状態」
 ということで、何もできないことに、いら立ちがどうしても募るのだった。
 さらに、やつがやっているのが、
「いたずら」
 というよりも、
「嫌がらせ」
 ということであり、
「警察の立場として、いたずらかもしれないが、キチンとした捜査を」
 ということになるのだろうが、実際に関わった人からすれば
「いたずらかも知れないが」
 ということではなく、
「いたずらには違いないが」
 ということで、捜査に当たることになる。
 これは、前者と後者とでは、まったく事情が違うというものだ。
 前者であれば、
「もし、本当に事件だったら」
 という緊張感をもって事に当たるが、後者であれば、
「どうせ嘘なんだから、形式的に事を済まそう」
 ということになる。
 つまり、
「誰がまじめに捜査なんかするもんか」
 と考えてしまう。
 それは、
「まじめに捜査することで、オオカミ少年の術中に嵌ってしまっているようで、これほど、悔しいと思うことはない」
 というものだ。
 それは、小学生の2年生の時であったか、母親が厳しい人だったので、
「学校から、筆箱を持って帰るのを忘れた」
 というだけのことで、
「学校まで、筆箱を取りに帰らされた」
 ということがあった。
「これほど、理不尽なことはない」
 と感じた。
 まわりは誰も、そんなことだとは知らないはずなので、堂々としていればいいものを、学校までの道のりで、気が付けば涙が出てきていた。
 それは、
「情けない」
 という思いが強く、さらに、その涙を周りの人が皆気づいていて、自分を嘲笑っているかのように思えるのだった。
 それこそ、
「たかが、筆箱ごときで」
 と思うのだろうが、その時はただ、
「物が何であれ、忘れて帰っても、家にあるもので代用すればいい」
 という考えが、小学生の2年生である佐久間刑事には分かっていたのだ。
 だから余計に、
「悔し涙」
 を流していた。
 これは、あくまでも、
「ただの偶然」
 ということであるが、鳴海青年の少年時代も、
「似たり寄ったり」
 ということであった。
 厳しい親に逆らうことができず、やはり、ちょっとした忘れ物を取りに行かされるということだったのだ。
 しかし、ここからが、佐久間刑事とは違う。
 佐久間刑事は、
「筆箱の代用品があるではないか?」
 ということから、
「学校まで取りに帰る」
 という行為が、実に無駄なもので、
「親からのいじめのようなものだ」
 と考えることで、理不尽さを感じたのであったが、
「鳴海青年の場合は、違っていた」
 というのは、
「鳴海青年には、母親からのただの虐待にしか思えなかった」
 だから、同じように、
「理不尽だ」
 と思っても、その理由に関しては分かっていない。
 そうなると、
「自分に対して理不尽なことをする母親のような行為は、自分は他の人には絶対にしない」
 という佐久間刑事の、
「正義感」
 というものはなく、逆に、
「自分が味わった理不尽さを、今度は自分に対して攻撃的な相手を懲らしめるために使おう」
 と考えたのだろう。
 実際に、少し成長してからやってみると、
「これが実際に楽しいものだ」
 と考えるようになった。
 つまりは、
「オオカミ少年」
 というのが、知らず知らずのうちに、
「自分の性癖になってきた」
 ということである。
 実は、鳴海青年の中にも、
「勧善懲悪」
 という気持ちはあった。
 しかし、
「オオカミ少年」
 ということの楽しさが、どうしても、
「勧善懲悪」
 というものを表に出させようとはしないのであった。
 それを考えると、
「俺は、この楽しみだけを求めて生きていく」
 と考えるようになった。
 同じ目に逢いながら、
「ちょっと違った発想を持ったから」
 なのか、それとも、
「タイミングや順序というものが少し違ってしまったからだ」
 ということからなのか、
「佐久間刑事と鳴海青年」
 という二人の間は、まったく違った世界を生きている、
「似て非なるもの」
 という性格になってしまったのだ。
 そうなると、
「近いだけに、見えない」
 といえるのが二人の間に立ちはだかった性格といえるのではないだろうか?
「目の前にあって、それを感じることができない」
 ということから、
「石ころの発想」
 というものを感じることができるのであった。
「石ころの発想」
 つまりは、
「路傍の石」
 と呼ばれるものは、
「そこにあって当たり前というものだから、意識することはない」
 と言われる。
 一種の、
「灯台下暗し」
 と呼ばれるもので、
「視界にあったとしても、そこが死角であれば見ることができない」
 ということであり、しかも、
「死角というのは、一番見えるであろうその場所に近い」
 といえるのではないだろうか。
 つまりは、
「長所と短所は紙一重」
 という言葉であったり、
「野球などで、得意なコースのすぐそばに、ウイークポイントがある」
 という言葉と類似しているといってもいいだろう。
 それが、
「佐久間刑事と鳴海青年」
 というものの、
「近くて遠い性格」
 といえるだろう。
 だから、
「見えるはずのものも見えない」
 ということから、
「永遠に交わることのない平行線」
 ということになるのだ。
 そういう意味では、二人は近くにいるのだが、
「見ている角度が同じだ」
 ということで、お互いに、
「同じものを見ているつもりでも、実際には隣を見ている」
 といってもいいだろう。
 だから、この段階では、
「二人の間に接点は何もない」
 ということになるだろう。
 しかも、その接点を見出すには、
「何かのきっかけが必要」
 ということで、それこそ、
「デジャブと思えることを、お互いに感じないと、交わらない平行線を曲げるということはできない」
 ということになるだろう。
「デジャブ」
 というものは、
「絵や写真などを見たりして、それを見た時、以前とこかで見たことがあったかもしれない」
 ということで思い出すことである。
 しかし、実際には、
「初めて見るものだ」
 ということであり、どこで見たかということも、思い出すことができないというのが、
「デジャブ現象」
 というものである。
 しかも、
作品名:交わる平行線 作家名:森本晃次