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交わる平行線

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「大人になってしまえば、誰でも一度くらいは、似たような経験がある」
 という人がほとんどではないだろうか?
 それを考えると、
「誰にでも起こりかねない」
 と言われることであり、
「心理現象」
 というものということになるだろう。
 今のところ、
「科学的には解明されていない」
 と言われているが、それだけ、脳の構造に迫るのではないかと思えるほどの心理的な作用というものが、潜伏しているといえるのではないだろうか?
 だから、いろいろな説がささやかれているが、それに対しての賛否は結構分かれているようで、
「どれをとっても、一長一短だ」
 といえるのではないだろうか?
 佐久間刑事には、
「何かの辻褄合わせのような気がするな」
 という考えが頭にあった。
 というのは、
「確かに何か酷似したものを見た」
 という意識があるが、それを、どうしても、
「その時に見たものだ」
 という確証が得られない。
 しかし、
「確証とまではいかないが、限りなく確証に近い」
 ということで無視をすることもできない。
 そう考えると、自分の中で、辻褄を合わせようと考えることで、
「以前に見たことがある」
 と無意識に感じさせるということで、
「辻褄合わせ」
 というよりも、
「自分を納得させたい」
 と思うからであろう。
 鳴海青年にも彼なりに、
「デジャブへの考え方」
 というのがあった。
 鳴海も、確かに、
「辻褄合わせ」
 という発想は同じで、
「そこまでは一緒なのだが」
 ということから、彼の場合は、
「自分の考え方には関係のないところで、見えない力が働いて、辻褄を合わせよう」
 と考えていると思っているのだ。
 佐久間刑事のように、
「自分を納得させる」
 という考えは、
「自分のことを信じているからできること」
 ということであろう。
 自分への納得というのは、
「自分を信じることへの納得」
 ということになるのであって、それが、結局、自分の中に、
「勧善懲悪」
 という考えをもたらしているということになるのだ。
 しかし、鳴海の場合は、
「自分を信じていない」
 ということから、デジャブという現象は、
「誰にでもある」
 というもので、それを、超常現象であったり、超能力のような、
「目に見えない不思議な力」
 という、
「スピリチュアルなもの」
 という考えに至ったのであろう。
 だから、自分はどうでもいいわけで、信念というのもそこにはなければ、
「自分の行動は、目に見えないものに操られている」
 と考えることで、そこには、
「罪悪感が生まれる余地もない」
 といえるだろう。
 だからこそ、
「オオカミ少年」
 というものに、平気でなれるということになり、その根本というのは、
「小学生の頃に親からの厳しい教育を受けたことで、本来なら、反発心が生まれてしかるべきなのに、見えない力の存在という方に逃げてしまったことで、なりゆきこそが、自分の生き方であるかのように思える」
 と感じるようになったということであろう。
 それを考えると、
「なるほど、こんなやつに、勧善懲悪などあるわけもなく、罪悪感がないというのも、当たり前だといえるだろう」
 ということになるのだった。
「自分を信じる」
 ということが、果たしてどういうことになるのかというと、佐久間刑事とすれば、
「正しいか間違っているかということは二の次ということで、自分を信じるということができる」
 ということであるが、鳴海とすれば、
「そんなものは迷信のようなもので、都市伝説でしかない。だから、事の次第が、善悪なのか、正悪なのか?」
 ということがわからないということであった。
 そもそも、反対語ということで、
「悪」
 というものがあるが、それを正に戻すと、
「正」
 というものと、
「善」
 ということになる。
「正と善というものは、そもそもが違うものであり、正というものは、何事に対しても正しいという信念のようなもので、善というのは、自分たちの都合の中で、正しいと思われるものを善だといってもいいのではないか?」
 というのが、佐久間の考え方であった。
 しかし、それを反対語にすれば、どちらも悪ということになる。
 そう考えると、
「この場合の反対語としての悪というのは、同じものなのだろうか?」
 ということであった。
「正と善」
 というものを、
「実際には同じものであるが、善は正の中に含まれる」
 という考えを持つことで、
「悪としての発想は同じものだが、それぞれの大きさのレベルで、同じ悪といっても、内容が違う」
 といえるのではないか?
 と考えられる。
 つまり、
「大悪」
 と
「小悪」
 とでもいえばいいのか、
「それをどうして区別できないのか?」
 ということになるのだが、
「その境目がはっきりしない」
 ということで、
「正」
 と
「善」
 ということのように、言葉を変えることもできないということだ。
 つまり、
「悪というのは、自分たちの都合ということで、分けることのできないものだ」
 といえるのではないだろうか?
「悪というものを分けてしまうと、人間というものが、さらに悪に近づく」
 という発想も成り立つのであり、その発想こそが、
「自分たちの都合」
 ということになるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「似て非なるもの」
 というのが、
「この世には、たくさんあふれている」
 といってもいいだろう。

                 卑怯なコウモリ

「自分の都合によって、悪になる」
 ということの典型例ということでパッと思いついたのが、
「オオカミ少年」
 という言葉でお馴染みの、イソップ寓話というものの中にある、
「卑怯なコウモリ」
 というお話である。
 これは、
「鳥と獣が戦争をしているところに迷い込んでしまったコウモリ」
 というのが、自分の保身のために、鳥に向かっては、
「自分は羽があるから、鳥である」
 といい、獣に対しては、
「自分は体毛が生えているから、獣だ」
 と言って、それぞれに都合よく対応して、保身を貫いていた。
 要するに、
「二枚舌を使っていた」
 ということである。
 戦争も長引いてくると、さすがに疲れてきたことから、
「終戦」
 というものを迎えることになり、お互いに、和解のようなものが成立した。
 その時に、
「コウモリの話題が出た」
 ということであるが、
「あいつは二枚舌で卑怯にも、それぞれに都合のいいことを触れ回っていた」
 ということから、
「鳥と獣が仲直りした」
 ということで、今度は、
「そのターゲットが、コウモリに向いた」
 ということである。
 コウモリとしては迷惑な話であるが、
「結局、どちらからも相手にされず、人目につかないような湿気の多い洞窟でひっそりと暮らすことになり、昼は表に出ないので、夜行性になってしまった」
 という結末だった。
 確かに、この話は、
「コウモリのように、二枚舌ではいけない」
 という戒めの話ではあるが、解釈次第によっては、違った解釈もできるということである。
 というのは、
作品名:交わる平行線 作家名:森本晃次