交わる平行線
ということでの、サクラのありがたみというものが、ほとんどないというのが、寂しいところであった。
だから、その年は、ほとんどの人が、
「今年は季節の巡りが早い」
ということを感じながら、同時に、
「相変わらずの異常気象なんだな」
と考えていた。
特に、この街の区画整理も一段落し、
「十年以上はかかった」
と言われる、
「駅前の区画整理」
というのも一段落だった。
なんといっても、駅が高価になって新規開業しても、まだまだそこから数年は、高架下であったり、駅舎の改修などが行われるというような体たらくで、まるで、
「世間体に悪い」
ということで、
「これ以上駅の開業を遅らせるわけにはいかない」
ということから、結局は、
「フライング気味に見える」
という状況だったのだ。
そもそも、
「鉄道会社側の、利権の問題」
という、
「勝手な都合」
によって、駅前が混乱したということでの罪は重いといってもいいだろう。
だからと言って、時代の流れから、
「殺風景な駅前になっても、致し方ない」
ということで、正直、
「駅前開発に期待をしている」
という人はほとんどいなかったことだろう。
そもそも、
「開発に十年以上もかかっている」
ということ自体が、
「気持ちをしらけさせる」
ということに十分といえるのではないだろうか?
まさかとは思うが、
「そこまで、鉄道会社が計算している」
ということであれば、
「世間を馬鹿にするのもいい加減にしろ」
という気持ちの人もいれば、
「敵ながらあっぱれ」
ということで、本当は呆れかえっているのだが、
「最初から期待などしていない」
ということを自分に納得させたいという気持ちから、そんな風に考える人もいることだろう。
なんといっても、この鉄道会社は、
「全国でも珍しいくらいの独占企業」
といってもいい。
それこそ、
「自治体が、この鉄道会社には頭が上がらない」
というほどの、大手ということで、実際には、
「やりたい放題だ」
といってもいい。
「政令指定都市で、ここまで、一つの企業が幅を利かせているというところはないだろう」
と言われるくらいであった。
だから、昔は商店街でにぎわっていたところも、今はなくなり、ただ、街の人のたっての希望ということで、
「一部のアーケード」
だけが、残ることになった。
本当は、
「せっかく新しい街に変わったのに、昔ながらの光景はみすぼらしく見える」
という意見が結構根強かったが、アーケードの奥にある、文化遺産として指定された神社の近くということもあって、文化庁からの口利きもあることから、残されることになったのだ。
それでも、一部のアーケード以外のところは、まったく昔と外観が変わってしまった。
特に、マンションなどが立ち並ぶところでは、
「新旧の光景が見れる」
ということで、これがしばらくすると、
「街の目玉」
と言われるようになったのだから、分からないものである。
今回の事件は、そんなマンションが立ち並ぶところで起こったのだ。
夕方の、本来であれば、帰宅ラッシュであったり、帰宅途中の買い物客でにぎわっていた場所でも、今や、
「世界的なパンデミック」
が、残っているということもあり、買い物客がめっきりと減ったことで、ほとんどの人が、
「急いで家路につく」
ということで、ただの、通勤路と化しただけになってしまっていた。
かつては、子供の遊ぶ黄色い声もあったが、それも聞こえなくなった。
そもそも、
「子供の声は、近所迷惑」
ということで、以前から問題になっていたので、子供の声が聞こえないというのは、
「ありがたいことだ」
ということであったが、昔を知っている人には、やはり寂しいと思えることであり、夕方というと、昔から言われているような、
「寂しい時間帯」
ということになるのであった。
そもそも、
「この夕方の時間」
というのは、あまりいい謂れのあるものではない。
子供の頃を思い出すと、
「夕暮れの黄昏の時間」
というと、
「遊び疲れ」
というものもあり、汗が身体に滲んでいるということもあり、
「鬱になりかかっている」
と言われる時間帯でもあった。
この
「オオカミ男」
と言われた男は、名前を、
「鳴海慎太」
という、今年就職してから3年目になるサラリーマンであった。
就職したその時が、ちょうど、
「パンデミックの入り口」
ということで、実際には就職難ということであり、本来なら、
「就職できただけでも、儲けもの」
という時代で、自分でも、
「よく就職できたな」
と思って、その時は、胸を安堵したものであったが、実際に就職してみると、想像とはまったく違っている仕事で、最初の希望していた職種とは、まったく違う部署への配置ということで、不満を払拭できないでいるのであった。
それでも、
「仕事があるだけまし」
と心に言い聞かせて仕事をしていると、
「どんな仕事でも、どこかに楽しみというのはある」
というもので、3年もやっているうちに、慣れもあってか、最初ほどの不満も薄らいでいたのであった。
ただ、夕方になると、子供の頃を思い出すからなのか、しかも、新入社員が入ってくる時期になると、自分の新入社員の頃のことを思い出し、
「やりきれない」
という気分になるのだった。
「これを、五月病というものか」
ということで、実際の一年目ではなく、それ以降のこの時期に、五月病の症状が出るというのは、おかしなものだったのだ。
ただ、それも、
「思い出」
という形で出るもので、感じたことでもないことを、感じたと思うというのは、
「まるで、デジャブのようではないか?」
と感じさせられるのであった。
夕方というと、前述の、アーケードの奥にある文化財としての、神社でよく子供のころ遊んだものだったが、その頃は、感じたのが、
「魔物が出る」
という感覚であった。
「どうして、魔物を感じたのか?」
ということを思い出してみると、そこには、
「日が沈みかけた時に感じる、長い影」
というものを感じたからだった。
自分が歩いている時に足元から延びる影が、自分の目の位置から見る場合は、まだ普通に見えるのだが、
「少しでも、離れた人の足元から延びる影」
というのは、まったく歪な恰好になっているというものだ。
「どうして、歪に思うのか?」
ということを考えてみたが、それは、
「自分から見た影が立体的に見えるからだ」
ということで、
「自分の目が正しくて、歪に見えるのは、自分が、正しい位置から見ていないからだ」
ということになり、その証明が、
「立体感で見えることだ」
という結論に至ったのだ。
さらに、もう一つ気になったのが、
「夕凪の時間帯」
ということでよく言われる、
「夕凪の時間というと、風がまったく吹かない時間が存在する」
と言われることであった。
普通であれば、日が暮れる頃になると、急速に気温が下がってくるということで、その温度差が、風を招くといってもいいだろう。
しかし、その風が吹いてこないということこそが、