交わる平行線
「何度も、そして、たくさんのバラエティに富んだ作品」
というものが、映像作品になるというものだ。
しかし、
「いくら作家の許可を得ている」
とはいえ、
「作家の本来描いてほしい」
という内容を把握できずに作った映像作品は、
「台無しになる」
というものである。
小説家の中には、
「徹底的にこだわりがある」
ということで、
「映像作品は、これ一回限り」
という形にしている人もいるのに、許容範囲の広い作家などは、
「時代背景」
も、
「事件が発生した場所」
というのも違っていて、
「本来であれば、時代背景も、舞台になっている場所が違うともなると、せっかくの本筋であるトリックは、市トーリー展開ですら、狂ってきている作家もいる」
というものだ。
特に、小説作法を映像化することで変えてしまうということになると、
「登場人物の設定」
であったり。
「準主役」
といってもいいであろう
「登場人物が登場しない」
ということになる。
といってもいいだろう。
小説の書き方には、
「主人公を中心」
とした、
「一人称的見方」
というものでの書き方、
であったり、
「三人称ということでの書き方」
というものがあったりする。
特に、戦前時代くらいの小説では、
「主人公である、私というものを中心にした、語り口調でのストーリー展開になっている場合。登場する探偵は、あくまでも、主役ではなく、そのために、
「探偵が最後の方にしか登場しない」
ということになるのだが、そのシリーズは
「あくまでも、探偵が主役」
ということであり、
「事件の最初から、いつものように、探偵を登場させる」
ということから、
「探偵の活躍ストーリー」
ということになると、
「準主役」
の人物の登場場面を極端に減らしたり、へたをすれば、
「まったく出てこない」
ということになるといってもいいだろう。
それが、
「探偵小説の黎明期」
と呼ばれる時期の話なのであろう。
だから、その時代のテレビ化した探偵小説は、
「ドラマを見るつもりであれば、映像作品は先に見る」
ということにしている、
原作を読んでから、映像作品というものを見ると、
「想像の中の映像の答え合わせ」
ということでいいのだろうが、逆をしてしまうと、
「映像を見ることで、想像力は限られてしまい、せっかくの想像の羽ばたくものがないということで、映像よりも、却って幅の狭いといってもいい、平面の世界にしかならない」
ということであった。
しかも、自分が読んでいる小説は、
「戦前戦後」
という、
「今とはまったく違う世界」
である。
「町の雰囲気」
も違うだろうが、
「まったく知らない世界ということで、想像をたくましくできることが楽しみであるのに、それを考えると、映像化というのは、想像をたくましくすることができない」
という短所をはらんでいるということで、
「映像を見ることで、想像力の幅が狭まる」
と考えると、
「俳優がよほどうまくやらないと、映像作品はひどいものになる」
といえるだろう。
そして、
「原作というものは、小説であり、映像作品の元になる」
というものは、
「脚本」
というものである。
「脚本」
というものは、
「小説」
というものとは
「まったく違うものだ」
ということである。
特にシナリオの場合は、
「描写に関しては、あまり詳しく書かない」
と言われていて、逆に、
「小説というものは、状況描写をしっかり書き込まなければいけない」
と言われている。
だから、逆に脚本で、
「状況描写を書きすぎると、まずい」
ともいわれるのだ。
それは、
「脚本と小説」
とでは、
「読む人が違う」
ということである。
「小説の場合は、あくまでも、読者が相手であり、脚本というのは、監督であったり、役者が読むものだ」
ということである。
だから、
「シナリオの場合に、描写が強いと、
「脚本家色の強い作品になる」
ということで、本当であれば、役者の個性を使って表現するはずの作品が、脚本家の考える、
「色」
というもので、着色されるということになるのであった。
だから、脚本家は、
「描写をオーバーには書かない」
というのが定説になっている、ある程度だけ書いておけば、あとは、役者が意識して、そして、それを監督がコントロールするというものである、
逆に小説というものは、
「あくまでも読者が想像できるような内容にならなければいけない」
ということで、
「できるだけ、描写をはっきりと描くということで、読者の想像力を掻き立てる」
ということになるのだ。
だから、
「小説などの書かれた本」
というものと、
「脚本などにおける台本」
というものは、最初からまったく違うもので、
映像作品の中では、
「原作があって、それをシナリオ化する」
というものもあれば、
「原作というものはなく、脚本家オリジナルというもので、脚本を書く」
というものの、
「どちらが難しいか?」
と言われることがあるというが、
「原作があった方が楽であろう」
と思われるかもしれないが、実は、
「オリジナル作品の方が楽だ」
といえるだろう、
それは、それだけ、
「脚本と小説というものが違う」
ということであり、
「似て非なるもの」
といってもいいのではないだろうか?
「今から30年ほど前」
という、いわゆる、
「世紀末に近い」
という時代に、
「トレンディドラマ」
などと呼ばれるドラマが流行ったことがあった。
恋愛ドラマやコメディなどが多かったが、その頃は、
「脚本家オリジナル」
というものが多かった。
それまでは、
「小説が原作」
というのが多くあり、その間にトレンディドラマっと呼ばれるものが存在していて、さらに、それ以降は、
「アニマや漫画の実写化」
というものが結構増えてきたことで、一種の、
「一時代の分岐点」
といってもいいのではないだろうか?
それを考えると、
「昭和末期から、世紀末の時代」
というと、社会も大きく変化した。
特に、
「バブル経済から、その崩壊」
などという時代は、
「まったく物が見えない時代」
ということであり、そもそもが、
「バブル」
という、
「実態のないものだ」
といってもいいだろう。
さらに、時代として、昨今ドラマなどもパターンが変わってきている中において、いまだに変わらない、
「刑事ドラマ」
であったり、
「医療もの」
というのは、
「コンプライアンスなどの問題」
であったり、
「ストーカー問題」
という、新しい時代の話が浮かび上がっているといってもいいだろう。
世の中というもの、
「目に見えないところで犯罪が起こっている」
と言っていいかもしれない。
「あなたの近くで、誰か、最近見なくなった人、いないですか?」
というようなセリフを、昭和の頃には、よく言われたという話を聞いたことがある。
実際に、
「蒸発」
などという言葉で言われたりして、捜索願を出されることも多かっただろう。
時代によっては、さらに昔であれば、