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交わる平行線

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「秋元刑事のように、勘での捜査をしてみるか」
 と考えるようになっていて、そのせいもあってか、
「自分の中で、天敵であり、関わることに関してここまでいやだと思っている鳴海青年というのが、この事件のカギを握っている」
 と思ったのだ。
 そもそも、最初からおかしかったわけで、
「飛び降りをした」
 というのが、その時は明らかに
「オオカミ少年の片鱗が見えた」
 ということで、いやな気分になったというわけであるが、一週間もしないうちに、偶然かどうかは分からないが、
「その場所を鑑識が調べれば、被害者以外の血液が落ちていた」
 ということであった。
 しかも、
「前日に雨が降ったので、その雨の跡がある」
 ということから、その、
「もう一つの血液は、少なくとも、数日は経っている」
 ということになり、
「加害者がけがをしていることによる血だ」
 とは言えないのである。
 さらに、
「このもう一つの血痕というものが、雨に流されたにも関わらず、強い反応で残っている」
 ということは、
「それだけ大量の血液だった」
 ということになるだろう。
 しかし、それは逆に別の疑問を醸し出すことになる。
 というのは、
「そんな大量の血が残っていた」
 ということであれば、
「どうして、今まで誰にも発見されなかったのか?」
 ということであるが、そうなると、
「その時にも、水道の水か何かで、流したのではないだろうか?」
 と考えられる。
「水を流しただけで大量の血を流しだすということであれば、血痕がついてしまってから、すぐに流さないと、見えなくなるほどの跡を消すということができるのだろうか?」
 ということである。
 そうなると、
「その血液が、そこにあっては困る」
 ということも考えられる。
 そうなると、
「オオカミ少年」
 ということである、
「鳴海青年」
 というのが、何かの意図があって、自分が
「オオカミ少年として自ら出てきた」
 ということになる。
 しかも、それを信じ込ませるということで、
「以前から、オオカミ少年と言われていた」
 ということは、偶然と考えてもいいのだろうか?
 そんな昔から言われていたことが、
「偶然だ」
 ということであったとすれば、それは、
「何か、策のあってのことだ」
 といってもいいのだろうか?
 つまりは、佐久間刑事としては、
「何か、底知れぬ寒気を感じさせる男」
 ということで、
「オオカミ少年」
 と言われていることが、
「最初からやつの作戦だ」
 ということになれば、
「どこか、勘で事件を捜査する、秋元刑事に似たところがある」
 といってもいいだろう。
 佐久間刑事が、この鳴海という男に、嫌悪を感じるのは、今までにも、同じような感覚で、
「秋元刑事に対しても、何か、不気味なことを感じていて、尊敬はしながらも、それ以上に、薄気味悪さを感じているからではないか?」
 と感じるのであった。

                 一番安全な場所

「卑怯なコウモリ」
 というものを、
「本当に卑怯だ」
 といえるのだろうか?
 というのか、
「あの話で、何が本当に言いたいことだったのか?」
 ということなのかというのを考えてみることにした。
 確かに、
「二枚舌を使う」
 というのは、
「卑怯なことだ」
 と言われても仕方がないことであろう。
 しかし、
「自分の身を守るため」
 ということであれば、それも致し方のないこととといっても、過言ではないだろう。
 というのも、
「自分の身を守るために、いろいろな生物には、もって生まれたものというのが存在している」
 たとえば、
「保護色」
 というように、色を付けて、
「まわりから発見されないようにする」
 ということで、それを軍事的に用いると、
「ステルス機能」
 ということで利用することができるというものだ。
 さらに防御方法としては、
「身体から毒を出す」
 というのも、そのためである。
「ふぐの毒」
 などもそういうものであり、さらには、自分を相手にさとらせないようにするために、砂の中に隠れる習性をもっていたり、
「ハリセンボン」
 のように、噛みつこうとしたり、捉えようとすると、ハリを出すことで、相手につかまらせないようにするという機能を持った動物がいるということだ。
 だから、コウモリだって、
「身を守るために、もって生まれた体の形状がある」
 というわけで、それを誰が、
「卑怯だ」
 といえるだろう。
 もっといえば、
「その修正をいかに利用して助かることができるか?」
 ということで、
「コウモリというのは、自分の特性というものがよくわかり。それを特徴ということでとらえるために、頭がよくなければいけない」
 ということを思えば、
「卑怯」
 と呼ばれることも、頭の良さの裏返しということではないか?
 と思うことで、
「コウモリ」
 というのは。
「それだけ頭がよく。生き残るために一生懸命だ」
 ということになるのだ。
 だから、
「褒められてしかるべきで。それを、卑怯だといわれるのは、心外だ」
 といえるのではないだろうか?
 この話のタイトル」

 を、
「卑怯な」
 というところで区切ってしまうと、あくまでも、
「コウモリが卑怯だ」
 ということになるだろう。
 しかし、ここで区切らなかったりすれば、あくまでも、
「このコウモリの名前が、卑怯なコウモリだという名前になってしまう」
 あくまでも、
「元の言葉を日本語に翻訳したことからだ」
 ということなのだろうが、
「本当にコウモリというものが、卑怯かどうかは別にして、必死で生きようとしている動物を、卑怯だというのはおかしな気がするのだ」
 ただ。コウモリの名前が、
「卑怯なコウモリ」
 ということであれば、それこそ、
「真相を隠すことができる」
 というもので、
「真実を隠そうとする場合、たくさんの嘘の中に一つの真実を隠してしまう」
 ということで、
「木を隠すのは、森の中」
 ということわざがあるが、まさにその通りなのだ。
 だから、この、
「卑怯なコウモリ」
 というものも、
「いかに隠すか?」
 ということを考えると、この実験の骨子の中に、
「いかに隠すか?」
 というキーワードが隠されているといえるのではないだろうか?
 そういう意味では。
「オオカミ少年」
 という話も同じである。
 真実は、
「最後にはオオカミがやってくる」
 というもので、この話の結末は分かっていても、
「何が言いたいのか?」
 というのは、
「その人の受け取り方によって違ってくる」
 といってもいいだろう。
「ずっと、嘘をつき続けると、そのうちに誰も信用してくれなくなり、最後には、食い殺される」
 ということであるとすれば、
「被害者である村人が、オオカミに全員食い殺された」
 ということは、いくら教訓が言いたかったとはいえ、ショッキングすぎて、
「寓話にはならない」
 といえるのではないだろうか。
 つまり、
「村人も、食い殺されるには、それだけの理由があった」
 ということになるのだろう。
作品名:交わる平行線 作家名:森本晃次