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交わる平行線

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「生き残るためには、このコウモリのように、二枚舌でも使って、なんとしてでも生きる」
 という考えが正しいといわれる場合もあるだろう。
  そもそも、このコウモリは、
「鳥と獣が戦争しているところに迷い込んだりしなければ、こんな生き残るための対策を取る必要もない」
 というわけで、もっといえば、そもそも、
「鳥と獣が戦争をしている」
 というのが、元凶ではないか?
 そう考えると、この話は、
「なんとしてでも生き残る」
 ということが正しいという考え方もできるし、
「戦というものは、別の角度からの悪というものを作り出す」
 ということで、
「戦が諸悪の根源だ」
 ということを言いたいのかもしれない。
 そもそも、
「イソップ寓話」
 という話には、
「何がいいたいのか、よく分からない」
 と言われるような話が多いというのは、無理もないということであり、それを考えると、
「戒めというのは、いったい何なのだろう?」
 ということになるのだ。
 古代から伝わる、神話というのもそうではないか。
 特に、
「ギリシャ神話」
 というものにおける、
「オリンポスの神々」
 というのは、まさにその通りではないだろうか。
「ゼウスを中心とする、オリンポスの神々は、人間よりも、人間臭い」
 といってもいいだろう。
 なんといっても、ゼウスなどは、自分の浮気で人間に産ませた子供を、浮気された国王が、怒って、
「浮気女を海に流した」
 ということから、配下の紙に銘じて。洪水をおこし、
「一夜にして、国王の領国を、海の底に沈める」
 という暴挙を行っているではないか。
 人間であれば、嫉妬からやりたいことであろうが、人間には、その力がないということでできない。
 人間を作った神が、
「人間にそんな力を与えれば、平和が守れない」
 ということから、人間に与えなかった力であるはずなのに、神は、
「自分たちにその力がある」
 ということを免罪符にして、
「やりたい放題している」
 ということになるのだ。
 それを考えると、
「人間が、神様のようなものだ」
 と言っていいのか。
「神様が人間らしい」
 といってもいいのかということであるが、
「人間を作ったのは神様だ」
 ということであれば、
「神様に、そんな暴挙は許されない」
 ということになるだろう。
 逆に、
「人間を作ったのは神様だ」
 ということを、民に信じさせるということで、
「君主が都合よく庶民を精神的に支配する」
 ということのために考えられたのであれば、
「あくまでも、中心は人間であり、神という存在は架空のものだ」
 と言ってもいいだろう。
 この場合に、
「神という存在は、君主であり、君主が神だ」
 ということを国民に信じ込ませることが重要だということになるならば、
「ギリシャ神話」
 というのは、
「人心をつかむ」
 ということで、利用されたバイブルだといってもいいだろう。
 だから、神というものを、
「いかにも人間」
 という形で描き、ひょっとすると、
「暴君というものも、神だ」
 ということにしてしまうことで自分たちに都合よく解釈させることで、自分たちの支配を正当化させるということになるのだろう。
 それが、
「卑怯なコウモリ」
 という話に息づいているということになれば、
「イソップ寓話」
 というのは、
「聖書だけではなく、ギリシャ神話の発想も伝承している」
 といってもいいのかもしれない。
 ただ。今の時代の日本というのは、
「民主主義」
 ということで
「信仰の自由」
 というものが許され、
「聖書の思想」
 であっても、
「ギリシャ神話の思想」
 であっても、どちらも許され、どちらも信じているといってもいいだろう。
 しかし、それぞれしか信じていなければ、この二つが、
「決して交わることのない平行線」
 ということがわかるのだろうが、
「どちらも信じている」
 ということは、その発想が、
「中途半端」
 ということで、
「どちらも信じるということは、まったく正反対のものを信じている」
 ということになるのだが、
「もし、そのことを理解できた」
 として、
「じゃあ、どちらが正しいんだ?」
 ということになれば、どう解釈するだろうか?
「神というものをどれだけ信じるか?」
 ということで、
「裏を返した時の、悪を考えた時、それが、正なのか、それとも、善なのか?」
 ということになるのであろうが、そこまで考えることができたとすれば、その答えというのは、
「そこに至るまでに、出ている」
 ということになるだろう。
 だとすれば、自分の中で、
「その域に達した」
 ということを感じたということであれば、それは、
「嘘である」
 ということになるだろう。
 それこそ、
「オオカミ少年」
 における悪夢のようなものではないだろうか?
 そんな
「オオカミ少年」
 である
「鳴海青年」
 のおかげというか、彼のせいで、
「一つの刺傷事件というものが、別の犯罪を孕んでいるのではないか?」
 ということが分かってきたのは、ある意味、
「余計なことのように感じた」
 というのは、
「警察官としては、口に出してはいけない」
 というくらいのことであった。
「不謹慎だ」
 といってもいいのだろうが、今回の事件においてということに限れば、
「知らなかった方がよかった」
 といえるかもしれない。
 というのは、
「佐久間刑事としては、オオカミ少年である鳴海青年のことを思い出したくなかった」
 ということであり、
「事件に関わっているのであれば、彼から何とかその真意を聞き出す必要がある」
 ということなのだろうが、結果としては、
「こっちが勝手に、鳴海青年を、オオカミ少年だと決めつけてしまったことが、一番の原因なのではないか?」
 ということで、
「佐久間刑事は、自分の中で、罪悪感を感じている」
 といってもいいだろう。
 しかし、
「警察官でなければ、絶対に関わりたくない」
 と思うように人物で、いわゆる、
「天敵に近い」
 といってもいいくらいの人物に感じられた。
「相手も同じことを思っているだろう」
 とも思え、今までであれば、
「天敵だ」
 と感じた相手でさえも、
「相手も同じことを感じているに違いない」
 とは思ったことがなかった。
 それなのに、今回は、
「同じことを感じている」
 とまで考えたのは、どうしてなのだろう?
 こちらが勝手にではあるが、
「オオカミ少年」
 と感じたり、話をしていて、
「こいつはオオカミ少年だ」
 と感じる前から、しいていえば、
「最初から」
 といってもいいくらいの段階で、
「話をしたくない」
 とまで思ったのだ。
「肌が合わない」
 などといえば、聞こえはいいが、
「完全に、気持ち悪い」
 とまで感じているということで、
「これほど、自分が好き嫌いというものを、表に出してまで、関わりたくないか?」
 という人物であった。
 今までであれば、
「そんなことを感じた人はいない」
 といってもいい。
 警察の仕事において、少々の凶悪犯であり、
「こいつとは絶対に関わりたくない」
 と思いながらも、それでも、
作品名:交わる平行線 作家名:森本晃次