反社会的犯罪
今回の事件を思い返してみると、
「婦女暴行」
というものが、
「近いところではあるが、管轄をまたいでいる」
ということが、樋口には気になっていた。
「別に犯人には、警察の管轄なんて関係ないんじゃないか?」
ということになるのだろうが、
それは、警察の勝手な考えであり、もし、相手が、
「頭のいい」
という相手であれば、
「警察がこのことにこだわらない」
ということを思うかも知れないが、警察とすれば、
「管轄意識」
というものは、それこそ、
「やくざの任侠」
と同じくらいにG大切なものだといってもいいだろう。
「つまらんプライドだ」
ともいえるだろうが、それを知っている相手、つまりは、
「同じように、縄張り意識というものを大切にする組織」
ということであれば、やつらにとって、
「計算ずく」
といえるのではないかと考えると、
「警察も、反社会組織」
というものも、
「同じ穴のムジナだ」
といってもいいだろう。
それを考えると、
「反政府組織」
というもの
「反社会組織」
というもの、似たような言葉で、
「なぜ名前が違うのか?」
ということになるのだ。
「名前なんて、別に気にしなくてもいいではないか?」
ということを考えると、
「そういえば、最近、似たようなことを考えたことがあったな」
と、樋口刑事は考えたが、
「それが何だったのか、思い出そうとすると、その寸前で思い出せなくなってしまっているのだ」
それを考えると、
「まるで寸止めではないか?」
と思うようになり、
「自分にとって、思い出せないというのは実は、真相に近づいている時だ」
ということにハッキリ気づいていないようだった。
だが、
「それを思い出していくうちに、分かってくるというものもある」
というもので、それが、
「男女雇用均等法」
というものにおける、
「名前の変革」
というものではなかったか。
つまりは、
「スチュワーデス」
というものを、
「キャビンアテンダント」
と読んだり、
「看護婦」
というものを、
「看護師」
と呼ぶなどという、本当であれば、
「呼び名などどうでもいいではないか?」
と思えることにこだわっていることが、却って、その問題に無関心な人から見れば、
「どっちでもいいことではないか?」
ということになるに違いない。
それをこだわるということは、
「しょせん、肩書がなければ、戦うことすらできない」
ということを、自分から告白しているようなものだといえるのではないだろうか?
そんな反社会組織であるが、やはり、連中には、
「バックに」
というか、
「表に」
「カルト宗教団体」
が絡んでいた。
実際には、
「反社会」
ではあるが、政府とは、密接に絡んでいる。それが、
「団体を継続させるために、政府を利用する」
ということで、
「政治家に対する金の授受」
つまりは、
「贈収賄」
というものが、組織と政治家との間で成立しているということであろう。
ただ、その資金をどうするかというと、そこで利用されたのが、
「宗教団体」
であった・
信者を利用し、金を貪り、それを政府への金として一部を利用する。もちろん、残りは、組織の上層部の懐にという手はずだが、これほど、悪徳なことはないと言えよう。
だから、
「反社会」
あるいは、
「反政府」
などとわざと言わせて、
「政府とは関係ない」
と思わせ、さらに
「宗教団体の特権を利用し、政治家と癒着する」
そんな奴らが、今の時代に君臨していることが、問題だった。
ただ、そのあたりのことは、警察や公安も目をつけていた。
「いよいよ、大規模な摘発を」
と思っていたところで、F県で、
「連続暴行事件」
というものが発生した。
これは、最初の犯罪こそ、
「久保による犯行」
ということであったが、あとのものは、実際には、
「模倣犯」
であった。
ただ、それは、
「変質者によるもの」
ということではなく、あくまでも、
「公安や警察の目を他に逸らせよう」
とする、一種の
「陽動作戦だった」
といってもいいだろう。
それを考えると、
「久保を自殺に見せかける」
ということには、二つの理由があったのだ。
一つは、
「すべての罪を久保に擦り付ける」
ということ。
そして、もう一つは、組織の関与を闇に葬るための、久保への口封じ」
ということであった。
どちらにしても、組織にとっては大切なことであり、さらに、彼等にとって、
「それを世間が知ったところで、パニックになるだけだ」
という正当性のようなものを、
「自分たちの中で思っているのだから、これほど厄介なものはない
といってもいいだろう。
大団円
前章による、
「宗教団体」
というものを後ろ盾にした、
「反社会派勢力」
による犯行。
というのが、今回の
「連続暴行魔事件」
の正体だった。
最初こそ、久保の犯行だったが、これも、久保の意志だけが働いているわけではなく、久保を洗脳することによって起こった犯罪だ。
最初は、目立たないところで終わらせるために、久保に尾行をつけて、
「必要以上のことにならないようにした」
ということで、事なきをえたのだが、それも作戦のうちだった・
そして、だんだんとエスカレートすることで、さらなる、
「世間の注目を浴びよう」
ということであった。
だからこそ、久保は、
「自殺という結末にならなければいけなかった」
ということだ。
ただ、前述にあるように、自殺にしては、疑問が残るのだった。
確かに、皆で追い詰めて、飛び降りを演出したことは、
「争った跡のないこと」
ということでは正解だったのだが、
「仰向けで」
ということは、そこに、
「数人に追い詰められた」
という痕跡を残してしまったことは、彼等にとって、
「致命的なミスだった」
といってもいいだろう。
そのことを、見つけたのは、樋口刑事であったが、同じ発想から、その先を動いたのは、秋元刑事であった。
だから、樋口刑事としては、
「事件の側面は見えてきたので、あとはゆっくり追い詰めよう」
というくらいに、
「まずは、外濠を埋めて」
と思っていたところ、実際に、
「内堀を埋めてくれた」
というのが、秋元刑事だったのだ。
秋元刑事は、もちろん、樋口刑事に逐一報告はしていた。
刑事とラマなどでよくある、
「上司に逆らって、自分勝手に捜査する」
という刑事ではなかったのだ。
というのも、
「テレビドラマには、秋元刑事は出てくるが、樋口刑事は出てこない」
といってもいい。
あくまでも主役は、
「アウトローな刑事」
であり、この刑事を主役にして目立たたせ、
「ドラマの幅を広げるため」
ということであれば、
「樋口刑事の登場は、却って不要だ」
ということになるのだろう。
そういう意味で、
「この犯罪が、小説化されるとすれば、樋口刑事は不可欠だろうが、そのまま、テレビ化であったり、映画化されるとすれば、そこには、樋口刑事はいらないのではないだろうか?」