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反社会的犯罪

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「久保は本当に連続暴行魔なのだろうか?」
 と感じているようだった。
「人と同じでは嫌だ」
 という考えを持っている秋元刑事としては、その考えを、最後まで明かすことはないだろうということは、
「K警察」
 の面々であれば分かるだろうが、ここは、
「F警察に設けられた捜査本部」
 他の人に分かるということはなかったのだ。
 それを考えると、
「久保容疑者の自殺かどうか?」
 ということに端を発し、事件は少し怪しいところに入ってきたのかも知れない。
 樋口刑事の懸念は、
「共犯者がいる」
 ということであれば、考え方は二つである。
「久保にすべての責任を押し付けて、自分たちはこのまま鳴りを潜めるか、場所をまったく関係のないところに移して犯行を続けるか?」
 あるいは、
「久保が死んでくれたことで、今度の犯行からは、前とは関係ない」
 つまり、
「模倣犯」
 と思わせる形で、事件をこのまま進めていくか?
 ということである、
 ただ、もう一つ考えたのは、
「連続暴行自体が、何かの犯罪のカモフラージュではないか?」:
 ということであるが、そんな
「探偵小説」
 のような話を、捜査本部が間に受けて、捜査をするはずがないということであった。
 実際に、
「共犯者がいないか?」
 ということも、頭の片隅に置いた形で、久保の身辺捜査が行われた。
 それはあくまでも、捜査本部として、
「形式的な捜査」
 ということで、あくまでも、
「連続暴行は、久保の犯罪であり、罪の呵責に苛まれたということで、自殺を強行して、死んでしまった」
 として、
「被疑者死亡」
 ということで、事件を解決させたいという、
「いかにも、警察上層部の考えに従うかのように、進んでいる」
 と考えると、
「もし、そこにウラがあるとすれば、許せない」
 というのが、樋口刑事と、桜井警部補の考えであった。
 もちろん、事件には
「管理官」
 という人がいて、その人が、
「警察組織を絵に描いたような人だ」
 ということで、なかなかうまく捜査本部が一枚岩にならないところがネックだったのだ。
 今までにも、この管理官に、
「煮え湯を飲まされたことが何ともあった」
 だが、逆に、
「桜井警部補と門倉警部が、一矢を報いた」
 ということも何度かあり、今のところ、
「痛み分け」
 と言ったところであろうか。
 だから、いつも、
「捜査本部は、犯人以外とも戦っている」
 ということになるわけで、それも、
「自分たちの宿命みたいなものだ」 
 ということで、苦笑いをしないといけないくらいになっているのであった。
 実際に、
「自殺反対説」
 というものを、唱えた二人の刑事は、それぞれに、
「紆余曲折を繰り返しながら、新たな真実に向かっている」
 といってもよく、
「ただ、そのための証拠のようなものがなかなか見つからない」
 ということがネックになっているということだった。
 ただ気になることとして、
「どうやらこの事件は、状況証拠だけを普通に事実として判断していれば、簡単には解決しないような気がする」
 ということであった。
 今までの事件にも、そう感じることがあり、それが、
「タイミング」
 であったり、
「順不同」
 ということから、別の方向にいくことがあったということだ。
 つまりは、
「物的証拠の積み重ねというものが、状況証拠にはならない」
 という場合があるということであり、
 それを考えていくと、
「マイナス×マイナスがプラスになる」
 という発想に近いものがあると考えるのであった。
 というのは、
「警察の捜査として二つが考えられ、その事件によって、状況証拠を考えて、物証を探していくというものと、物証が見つかったことで、推理が組み立てられる」
 ということである。
 もちろん、最初から物証が簡単に見つかれば、そこから状況証拠が真実として生まれてくるわけだ。だから、この場合の方が、状況証拠には、真実としての信憑性があるわけで、
「事実というものの積み重ねが、真実になる」
 ということになるだろう。
  逆に、状況証拠からの物証であれば、物証が事実ということになり、
「事実の裏付けが真実」
 ということになる。
 そのどちらも、事実であっても、真実であっても、結果的に見えることと、そのプロセスの違いというわけで、同じになるのが当たり前だといえるだろうが、そこに作為というものが加われば、
「犯罪というものは見る角度によって、屈折しているプリズムのように、別の見方が出てくる」
 ということになるだろう。
 それを考えると、
「事実は一つしかないが、真実は一つではない」
 と言われることの理屈が分かってくるというものだ。
「真実」
 と
「事実」
 の違いということになるのではないだろうか?
 今回の事件に対して、実際に調査をしてみると、
「被害者に共通てがある」
 というわけでもなく、
「犯人をプロファイルしてみた」
 ということであっても、どうも要領を得ない。
 もっと言えば、
「犯人と目されている、自殺をした久保という男も、どういう性格なのか、聞き込みをしても、何ら出てくるわけでもなかった」
 さらに、異常性癖ということから考えて、一応、
「生活安全課に問い合わせをしてみたが、別にストーカーとして認知されているわけでもない」
 ということであった。
 それを考えると、
「今回の事件において、久保が犯人だというのはあくまでも、状況証拠」
 ということであり、しかも、その状況証拠も、決め手があるわけではない。
「動かぬ証拠」
 というものでなければ、立件することは難しいだろうが、これが、
「被疑者死亡」
 ということであれば、裁判になるわけではなく、普通に書類送検に近い形で処理されるだろう。
「じゃあ、彼の遺族は何も言っていないのか?」
 ということであったが、何も言っていないという。
 もっとも調べてみると、彼の両親は彼が中学生の頃、交通事故で亡くなっていて、それ以降は、
「親せきをたらいまわし」
 という、
「絵に描いたような不幸な人生だった」
 ことだろう。
「児童の頃でなくてよかった」
 という人もいるかも知れないが、それは間違いで、
「肉親が死んだ」
 しかも、
「両親ともに」
 ということであれば、相当辛いことだろう。
 しかも、年齢的には、
「思春期真っただ中」
 ということで、精神的には、かなり痛手だっただろう。
 それに輪をかけて、
「学校でいじめの対象になっていた」
 ということで、中学を卒業してから、失踪したというのだから、
「相当な目に遭った」
 ということである。
 しかも、
「たらいまわしにしていた親戚から、捜索願すら出ていない」
 ということで、下手をすれば、
「いい厄介払いだった」
 といってもいいだろう。
 近所の人の話では、
「引き取られた家に、子供がいるところなど、あからさまな自分の子供への贔屓があり。そのせいで、久保が、どんなにひどい目に遭っていたか」
 ということは、
「想像を絶する」
 といってもいいだろう。
 それを考えると、
「失踪する気持ちも分かる」
 というもので、これでは、
作品名:反社会的犯罪 作家名:森本晃次