小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

交換による解決

INDEX|7ページ/16ページ|

次のページ前のページ
 

 そうやって考えると、
「人間の欲」
 というのは果てしないものということであり、
「それを追い求めようとすると、死んでも死にきれない」
 ということになるだろう。
 そんな時代を生きているということで、
「とにかく、今をしっかりと生きることだ」
 と思っていたのだった。
 そして、見つけたのが、
「生きがい」
 というもので、
「お金でも名誉でもない」
 という考えであった。
 ただ、名誉に関しては、
「生きがいというものに徹するうえで必要な名誉は、大切にしまっておくものだ」
 と考えるようになっていたのだ。
 そんな幸之助が、ある日自殺をした。
 その理由は謎に包まれていて、家族も分かっていなかった。
「いくら皆他人とはいえ、おじいさんが亡くなったのに、誰も何も悲しんでいないように見える」
 というのが、悲しいということだったのだ。

                 亡国の政治家

 すでに、悠々自適な生活をしていた幸之助は、時々、フラッと旅に出ていたのだ。
 元新聞記者ということで、
「悠々自適」
 などというと、
「まるで、昭和の頃の定年退職」
 と思わせるのだろうが、今の時代は、昭和の時代のような悠々自適は、ほぼ許されないだろう。
 よほど、夫婦で、倹約をして、お金を使わずに、まるで、
「守銭奴」
 と呼ばれるような生活でもしていない限りは難しいだろう。
 もっとも、
「株なとをやって、それで儲けた」
 という場合であれば、
「その人の才覚」
 ということで、問題はないのだが、
「ギャンブル」
 などで儲けた金を、株と一緒にしていいのだろうか?
 幸之助の場合は、細君を、40代の時に亡くしていた。
 つまり、小笠原氏にとっての祖母は、
「もういない」
 ということであった。
 だから、旅行に行くといっても、一人旅。
「悠々自適」
 というような、
「世界一周の船旅」
 というような贅沢ができるはずもなく、電車の周遊きっぷなどを使って、
「着の身着のままの一人旅」
 ということであった。
 幸いにも、彼には趣味があった。
「絵を描くことと」
 と、
「俳句」
 であった。
「文学的なことで、文章を書く」
 というのは、当然のことで、長けているのだろうが、だから敢えて、俳句のように、限られた文字数で表現するということに興じるのだった。
 元々は、
「仕事とは関係のないところでの趣味を持ちたい」
 ということは考えていた。
 絵に興味を持ったのは、奥さんが亡くなってからすぐくらいの、まだ失意が抜けていない時、取材で、
「絵画の先生」
 という人をインタビューした時だった。
 その人の話を聞いていると、
「世の中、自分の思い通りにならない時などに、趣味をやっていれば、少しは違う」
 ということを言っていたからだ。
 その時、幸之助は、その言葉に感動した。
 というのも、
「それまで仕事一本で、趣味などなかった」
 確かに、
「仕事をしていれば、満足感があるし、充実感があったのだが、楽しいという思いはなかったのだ」
 そう感じた時、
「そうか、趣味か?」
 と思ったのだ。
「もし、趣味に興じるだけの心の余裕があれば、今ここで悲しまなくてもいい」
 ということであった。
 奥さんが亡くなったというのは、ショックで、いたたまれないのだが、その反面、
「どうして、こんなに悲しまなければいけないんだ?」
 という冷静な目で自分を見るのであった。
 それを考えると、
「趣味をしよう」
 と思い、
「せっかくなのだから、趣味の大切さを教えてくれた絵画にしよう」
 と思ったのも、無理もないことであろう。
 実際には、子供の頃から、
「図画工作」
 というのは苦手だった。
 まだ、
「工作の方が好きだった」
 といってもいいだろう。
「立体が好きだったのか、彫刻には、興味があったのだ」
 それに比べて、絵というものは平面であり、実際にやってみると、
「これほど難しいものはない」
 と思えた。
 だから、小学生の頃で、図工というものには、あきらめをつけていたのだった。
 だが、大人になって、30代くらいからであろうか、結婚してから少しして、奥さんと一緒に、
「美術館」
 というものにいった。
 それまで、
「美術を諦めていたこと」
 さらに、
「美術館に出かけても、何ら感情が湧いてこない」
 ということから、本当は、
「美術館は嫌だな」
 と思ったのだが、奥さんが、
「どうしても」
 ということで、連れて行ってくれたのだった。
 その時は、確かに、勘当というものはなかったのだが、
「奥さんと二人で美術館に出かけた」
 ということが思い出とな、奥さんが死んでから、失意の元、その思いでを思い出そうとして、ふらりと美術館にいってみた。
 すると、それまで感じたことのなかった何かを感じるようになり、
「絵を描いてみようかな?」
 と感じるようになった。
「風景画などを、出張先の名所旧跡にて、写真に収め。それをスケッチブックに書き写す」
 という程度のものであったが、実際にやってみると、
「できるじゃないか?」
 ということで、その頃から、少しずつ描き始めたのだった。
 だから、
「絵というものを描く趣味」
 というのは、
「すでに20年も前からやっている」
 ということだったのだ。
 そして、俳句に興じるようになったのは、前述にもある通り、定年になってから、
「新聞社」
 というものから離れることで、
「文字というものから離れてしまうのがどこか嫌だ」
 と感じたこと、
 そして、
「文章ではない文字を操る」
 ということに興味を持ったことでの、
「俳句への興味」
 だったのだ。
 自治体の役所であったり、コミュニティセンターなどでは、
「生涯学習」
 ということで、
「いろいろな芸術などの教室」
 が開かれていたのだ。
 絵画などはもちろん。その中には、和歌や、俳句というものもあった。
 和歌でもよかったのだが、
「季語を使ったり、貴族の趣味としての和歌よりも、庶民の娯楽ということでの、俳句の方が、馴染みやすい」
 と感じたのだ。
 それに、
「俳句を志してみよう」
 と感じたのは、
「そもそもの主題となる趣味は、絵画であって、その絵画の気分転換となる趣味がもう一つほしい」
 ということで探していたものであり、
「あくまでも、セカンドの趣味」
 ということでしようと思ったのだから、やはり、
「気軽なところでの、俳句」
 ということにしたのだった。
 だから、
「旅行に出かける」
 というのも、
「旅先で、スケッチブックを広げて描く」
 ということもその一つで、俳句というと、イメージとして出てくるのが、
「松尾芭蕉」
 である、
「奥の細道」
 などの、
「旅行記のような俳句集というものを真似てみたい」
 と考えたり、絵を描く時の素材をそのまま、俳句という文字列にすることもできる。
 ということからの、考えで、だから、
「よく旅行に出かける」
 というのは、そういうことだったのだ。
 さらには、
「湯治目的」
 ということでの、
「温泉三昧」
 これこそ、新聞社時代に、
「老後の生活」
作品名:交換による解決 作家名:森本晃次