交換による解決
ということから、
「いまだに続く長寿番組」
と言われるのだ。
それを考えると、
「政治や歴史の話題」
というのは、
「どの時代であっても、一定数の人が、興味を示す」
といえるであろう。
そんな時代に、幸之助は、新聞社で、ジャーナリストとして活躍していたのだった。
ただ、
「テレビに押される」
という時代であったり、
「活字離れ」
という時代もあることから、
「新聞が売れない」
という時代もあった。
しかし、それでも、今までは何とか売れてきたのだが、今の時代は、その存続というものが、
「時代の流れ」
ということで、
「どうにもならない」
という時代に入ってきたのだった。
というのも、一番の問題は、元々は、
「パソコンの普及」
ということで、新聞に限らず、本というものが、
「電子化」
ということで、
「パソコンで読める」
ということになったからである。
実際に、本や新聞は、
「紙媒体」
というもので売れなくなった。
というのは、
「パソコンで見ればいいので、読み終わった後、どうすればいいか?」
ということである、
「本というのであれば、、本棚に飾ることで、一種のステイタスのようなものを感じさせられる」
ということになるのだろうが、新聞ということであれば、
「毎日のもので、読み返すということもないので、ごみでしかない」
ということになる。
もっとも、昭和の頃などは、
「古新聞古雑誌は、トイレットペーパーと交換します」
という、
「チリ紙交換」
という職業があった。
今では、本であれば、
「中古屋にもっていって売る」
ということもできるが、新聞は、捨てるしかない。
そうなると、
「確実に神の新聞が売れなくなる」
というもので、実際に、今まで、
「朝の風物詩」
といってもよかった、
「駅の売店で先頭切って売られているという新聞の姿を、ほとんど見なくなった」
というものだ。
「昔は、電車通勤のサラリーマンが、満員電車の中で、新聞を八折りくらいにして、電車に揺られながら、通勤する」
というのが当たり前だったが、今では、スマホの画面を見ながら、
「新聞を見ている」
という人は当たり前にいるだろうが、中には、
「ゲームをしている」
という人も、新聞を読んでいる人よりも多いことだろう。
今では、
「新聞よりも、ゲーム」
という時代であり、
「これも、時代の流れということでいいのだろうか?」
と考えさせられてしまうのであった。
実際に、
「スポーツ新聞などは、ネット配信以外では、販売しない」
と、完全に、
「紙媒体というのは、作らない」
と宣言した新聞社も少なくはない。
「実に嘆かわしい」
と、ニュースで言われているが、
「そもそも、新聞を買わない連中が何を恰好いいこと言ってやがるんだ」
といっていいだろう。
そもそも、
「新聞や本が売られている時、見向きもしなかった連中」
である、
どうせ、インタビューを受けて、
「恰好いいことを言わないといけない」
ということで、取ってつけたような言葉を選んで言っているだけだ。
つまりは、
「長い者には巻かれろ」
というもので、それこそ、
「今までファンでもなかったチームが優勝したことで、地元チームであれば、自分もっ昔から応援していた」
と、まるで二枚舌を使っているような、いわゆる、
「にわかファン」
と同じである。
「どうせなら、自分の意志を貫いた方が格好いいというもので、そういうにわかファンのような連中が、一番嫌いだ」
という考えを持っているのが、幸之助という男なのだ。
そもそも、
「そういう気概がないと、ジャーナリストとして生きてはいけない」
ということで、幸之助がよく言っているのが、
「多数決になびくやつだ」
ということであった。
確かに、民主主義というのは、いいものなのかも知れない。
「しかし、どんなものにでも、欠点はある」
ということで心構えをしておかないと、見誤るということになるということであった。
特に民主主義というものの基本は、
「多数決」
ということと、
「自由、平等、博愛」
という考えだという。
しかし、実際に、自由と平等をそれぞれ大切だということで、両方を重んじようとすると、そこに矛盾が生じてくるということである。
例えば、平等というものであるが、
「人間は、生まれながらに平等だ」
という人もいるが、果たしてそうなのだろうか?
人間は、生まれることを選べない。そして、誰から生まれるかということも選ぶことができない。
ということは、
「金持ちに生まれるか、貧乏な家に生まれるか?」
「身分の高いところに生まれるか? それとも、身分の低いとことに生まれるか?」
ということだけでも、
「平等ではない」
といえるのではないだろうか?
そもそも、
「幸せというのが何たるか?」
という問題からして曖昧なものだ。
「金持ちだから、幸せなのか? 貧乏だから不幸なのか?」
ということである。
確かに、
「お金がないと、生きていけない」
というのは当たり前なことだが、
「苦労しても、切羽詰まらず、何とかでも生きていければ、それを幸せというのだ」
という人もいる。
それを考えると、身分にしてもそうだ。
戦国時代のような、群雄割拠の時代に、
「領主だから、幸せだ」
といえるだろうか。
確かに、
「領主として君臨できる」
ということで、他の人に比べれば、いいところに住めるのだろうが、戦になれば、逃げることはできない。
もっといえば、
「戦で敗れれば、斬首」
ということになるか、
「城に籠って、切腹をする」
ということが決まりだったりする。
まだ、
「領民の命乞いに、自分の命を差し出す」
というと恰好はいいが、結局、切腹ということになることに変わりはないのだ。
領民でいても、
「いつ殺されるか分からない」
ということではあるが、少なくとも、
「領主として、絶えず気を病んでおかないといけない」
というほどのことはないだろう。
それを考えると、
「どちらが幸せなのか?」
ということは分からない。
結果、
「その人の人生が終わり、その人がどう感じるか?」
ということになるのだろう。
しかし、
「命がなくなっては、考えることもできない」
ということで、それこそ、
「永遠のテーマだ」
ということになるだろう。
「誰の子供で生まれるか?」
ということも同じであり、金持ちに生まれても、会社が潰れてしまえば、
「残るのは借金のみ」
ということで、
「戦に負けた領主」
とまではいかないが、
「借金だけが残ってしまい、あとは首をくくるしかない」
という状態になってしまえば、それこそ、
「何が幸福なのか分からない」
ということである。
「金の問題」
というのも、そうである。
お金をたくさんため込んでも、あの世に持っていけるわけでもない。
しかも、
「お金を貯めるために、理不尽なことであったり、思ってもいない目に遭ったりして、結局は、お金だけが信じられる」
ということになりかねないというものだ。