小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

真実と事実のパラレル

INDEX|9ページ/15ページ|

次のページ前のページ
 

「それなら、別に不倫相手と長く付き合うこともないはずなのに」
 と思うのだが、その時、村上が考えたのが、
「自分の中にもう一人いて、一人は女房と、もう一人は不倫相手と、似たような気持ちで付き合っているだけなんだ」
 と思えば、
「1+1」
 ということを考え、それが、
「完璧な1になる」
 と考えると、
「この関係が、俺には一番似合っているのかも知れない」
 と思うのだった。
 そして、不倫を始めた奥さんも、
「同じことなんだろう」
 と勝手に思い込むようになった。
 そこには、自分なりの確信的な思いがあり、それは、
「女房も、二重人格なところがある」
 ということが分かっていたからだ。
「あいつも、不倫相手に、俺には見せない顔を見せているに違いない」
 と思うと、
「俺も、女房といる時と、不倫相手では、まったく違う顔をしているんだろうな」
 と感じるのだ。
 奥さんというものの、
「もう一人の存在」
 というものは分かっているが、
「もう一人のその顔というものを見てみたい」
 と感じるようになったのは、
「ひょっとすると、嫉妬といえるものなのではないだろうか?」

                 嫉妬と二重人格

 村上自身、学生時代から、
「俺は嫉妬深い」
 と思っていた。
 学生時代は、普段から、
「ダサい」
 と言われていて、
「あいつに彼女がいないというのは、当たり前」
 と言われていた。
 自分でも、
「ダサい」
 という感覚はあったが、まわりがいうほどのことはないとも思っていて、
「どうしてそこまで言われなければいけないのか?」
 ということを考えると、
「俺って、学生時代から、嫌われ者だったんだろうな」
 と、いまさらながらに感じていた。
 だから、
「ダサい」
 というものが、
「人から嫌われる」
 というオーラのようなものを醸しだしていると思っていたのだ。
 だが、それでも、
「徹底的に嫌われる」
 ということはなかった。
 もちろん、中には、
「顔を見るのも嫌だ」
 と、まるで、
「生理的に受け付けない」
 というほどの考えの人もいたようだった。
 しかし、自分の中では、
「そんな人もいてもいい」
 というくらいに、余裕のようなものがあった。
 その理由は、
「俺のことを嫌っている連中もいるが、慕ってくれている人も一定数いるのだ」
 と感じていたからだった。
 慕ってくれる連中が確かにいて、その連中と輪を形成すれば、
「自分がいつの間にか、その輪の中心にいる」
 ということになるからだった。
 だから、
「俺のことを慕ってくれている連中とコミュニティを形成すればいいんだ」
 ということで、問題は解決するのだ。
 そういう意味で、
「敵も多いが味方も多い」
 それでいいと思っていた。
 しかし、その敵の中に、奥さんが入ってしまった。
 今までの経験からいけば、
「女房は、俺のことを生理的に嫌なんだろうな」
 と思った。
「俺の方も、女房に対して、飽きたという感覚を持っているのだから、これも、生理的に合わないと考えれば、二人は同じ感覚ではないだろうか?」
 と思えるのだった。
 それであれば、
「離婚は簡単に行く」
 と思っていた。
 だから、逆に、慌てて離婚することもない、つまりは、
「こちらから言い出すと、こっちが不利だ」
 ということで、話は、
「相手から」
 と思っていた。
 案の定、離婚を切り出してきた奥さんだったが、村上は、
「待ってました」
 とばかりであった。
 ただ、村上の中には、
「不倫というのは、奥さんが家にいてくれて、その間であるから、刺激もあるし、楽しいのだ」
 と思っていた。
「そもそも、不倫の楽しさって何なんだ?」
 と村上は思った。
「奥さんでは味わえない快楽を味わえる?」
 それとも、
「刺激や興奮がほしい?」
 それとも、
「男としての快感を得たい?」
 といろいろ考えるが、結論として、
「それも正解で、どれも間違いだ」
 という、まるで、
「禅問答」
 のような話になるのだった。
 ただ、この考えは、あくまでも、
「奥さんと一緒にいる時に、不倫相手のことを考えた時」
 というものであった。
 逆に、
「不倫相手と一緒にいる時に、奥さんを考える自分」
 という、
「もう一人の自分」
 というのもいるのだ。
 しかも、二人は、その気持ちを
「たすきに掛ける」
 という形でしか、表すことができない。
 それ以外の自分が、表に出ているのかどうか分からないが、自分の意識の中にはないのだ。
 それを考えた時、
「そっか、その場合のもう一人の自分」
 というのは、
「夢を見ている」
 という時の自分なのではないだろうか?
 だから、
「目が覚めるにしたがって、見た夢というのは忘れていくのだ」
 ということになるのだろう。
 それは、
「覚えていないのではなく、忘れてしまう」
 という本能ということになるのだろう。
「忘れるということは作為があって忘れる」
 ということで、
「覚えていない」
 ということとは、反対から見たものといえるかも知れないが、
「実は、もう一人の自分というものが、影響している」
 ということになるのかも知れない。
 実際に、
「現実社会」
 ということで、夢のような忘れ方をしない状態であれば、その時は、
「まるで、たすきに掛けたような見え方になる」
 というのは、実は、子供の頃から感じていたことだった。
 しかし、それは、
「もう一人の自分」
 というその存在を意識しているものであり、逆に意識するからこそ、
「片方が表に出ている時は、片方のことが分からない」
 ということは分かっていた。
 子供の時は分からなかったが、大人になると、
「だからこそ、見えていないもう一人の自分を見ようと、意識的に感じることで、たすきに掛けたように見えるんだ」
 と感じたのだ。
 これは、
「お互いの意識の中で、その存在を意識はできるが、決して、見ることはできない」
 と分かっていたことだ。
 それがなぜなのかというと、
「昔から、楽器が苦手だった」
 と思っていた。
 特に、
「ギターやピアノなど、できるわけはない」
 と思っていたのだが、その理由は、
「右手と左手で、まったく違った動きをすることができない」
 と考えたからだ。
 しかし、人間というものは、
「左右で別々のことができる」
 というのは、
「自分を含めてある程度の人ができるだろう」
 と感じていた。
 それは、
「本能によるものだから」
 ということで、
「人間が持って生まれた能力だ」
 と考えると、
「自分にもあるはずだ」
 と思うだろう、
 しかし、いくらやっても、
「自分が楽器の演奏しているところ」
 というものを想像ができなかったのだ。
 つまりは、
「俺にはできない」
 ということである。
 逆にいえば、
「もう一人の自分の存在を意識したとしても、考えることはできない」
 というのが、自分というものだということであった。
 逆に他の人は、
「左右で別のことができる」
 ということは、それは、
「無意識にである」
 と思えば、
作品名:真実と事実のパラレル 作家名:森本晃次